いる。鬱々《うつうつ》として、いまにも何かはじまりそうな気分である。金剛寺門前町は、危機をはらんだまま、表面しずかに風にまかせている。
 何か大声に呼ばわりながら、走って来る人がある。町内の世話役らしい。あちこちの店から人が駈け出て来て、一団になって、なおも人を集めて行く。やがてそれらが通りの中ほどにある会所へどやどや上がって行ったのは、それから相談でもあるのであろう。
 群衆が、そこの入り口にあふれて、ののしりさわいでいた。あらたにできた万屋《よろずや》対小商人の確執が燃え上がろうとしているのだ。生活を脅威された金剛寺門前町の小あきんどたちが共通の恐慌によって、こうして団結し、画策しつつある。不穏な状態である。
 お高は、それに気がついたが、さっきの続きで心がいっぱいなのだ。もう一度きいた。
「何がそう合点がいかないのでございます」
 一空さまは、周囲の物騒な空気も意識しないようすだ。お高の声で、現実へ引きもどされた。
「何が合点がゆかぬといって、――それほど合点のゆかぬことはない。あんたの母者人のおゆうさんは、この江戸でも、一、二といわれる大財産を受け継いだのじゃ。が、あんたのいわれるように、相良どのが、そのような大金持ちでなかったとすれば、そのおゆうさんの大資産は、いったいどうなった? 誰が譲られたか。それとも、消えうせたか。じつに、合点のゆかぬはなしである」
 お高は、他人《ひと》ごとのようにぼんやり聞いている。ぴったり来ないのだ。それは、まるでお伽噺《とぎはなし》だ。母がそんな江戸で一、二の富豪だったとしたら、母の死後、父ももっといい生活ができたはずだし、自分にしたところが食べるための苦労は知らずにきたであろう――お高は、この一空さまをまじめに相手にしているのが莫迦《ばか》々々しくなってきた。
「きっと母がその財産とやらをつかってしまったのでございましょうよ。さもなければ、父が、海へでもほうったのでございましょうよ」
「わしは、ふざけておるのではない。海へ沈めようが山へ埋めようが、一代や二代でつかいきれる金ではないのだ。ことに、すっかりおゆうさんの名義で、だれも指一本触れられんようになっておった」
 お高は笑い出してしまった。
「よくご存じでございますねえ。どうしてそんなにご存じなのでございますか」
 すると、一空さまは、その、おゆうの莫大《ばくだい》な財産のために、自分の一生が決定されたと妙な答えをするのだ。
「もしさような金持ちでなかったら、おゆうさんは、わしの女房になったところじゃ」
 わけがわからないので、お高が黙っていると、一空さまはひとりで、良人《おっと》の相良寛十郎にも娘のお高にも、おゆうが財産を遺していないというのが不審だと、しきりにいいつづけている。おゆうにほかに子供があったのではないかとさえ、きくのだ。お高は、すっかりその話に飽きてしまっていた。自分には兄弟も姉妹もないし、母に隠し児《ご》があったなどとは、想像もできない。聞いたこともない。そう答えると、
「おゆうさんは、あんたの幾つのおりになくなられたかな」
「あたくしを生みなすって八月目に、おなくなりなすったのだそうでございます」
「不思議じゃ。あの大財産はどこへ行ったのじゃ。高価な香炉は、どうなったであろう。誰が継いでおるのか」
「聞いたこともありませんでございます」
「それが、不思議じゃ。じつに、異なことじやわい」
 それきり、ふたりとも黙りこんでゆくと、金剛寺門前町をすこし楼門《さんもん》へ寄ったところに、大きな店のあるのに気がついた。それが、新たにできた、問題の万屋であった。
 和泉屋《いずみや》という金看板が、風にきしんで、鳴っていた。
「あれじゃ。割りこんで参って、この騒動を起こしたのは」
 一空さまが、指さした。

      五

 和泉屋は、間口の広い、立派な店である。米、味噌、醤油、酒、油、反物、筆墨、小間物、菓子、瀬戸物、履物類その他日用品一切が、きちんとならんでいる。そこらに売っているものは、何でもある。しかも、体裁がよく、品質もまさってるのだ。そのほか他店よりも値段がやすい。
 それで客のはいらないわけはないのだが、店には大勢の番頭小僧のほか、客といってはひとつの人かげもない。品物と店員だけで、がらんとしてるのだ。買い手どころか、近よる人さえないのだ。手持ちぶさたに見える。襲撃に備えて、出入りの鳶《とび》の者などがそれとなく店の周囲を固めていた。
「何とも、奇妙な話じゃ」
 一空さまが、つぶやいていた。それは、お高の母のことのようでもあり、またこの和泉屋のことのようでもあった。
「何がそんなに奇妙なのでございましょう」
 お高がきくと、
「いや、あんたは、何も知らんようだが、この和泉屋というよろず屋は、江戸中に三十何軒も出店があって、これもその一つじゃ。そもそも和泉屋というのは――」
 いいかけたとき、そこは楼門《さんもん》の下だった。一空さまは笑いながら、先に立って門をくぐった。
「まず、洗耳房の餓鬼どもを見てもらおう。はなしは、あとでできる。ははははは、後でゆっくり話しましょう」
 金剛寺内の洗耳房には七、八つから十五、六ぐらいの子供たちが手習いをしたり、読み方をさらったり、口論をしたり、とっ組み合いをしていたり、それはそれは大変な騒ぎであった。一空和尚の庵室なのだが、学房に当てているので、こどもたちのためにすっかり荒らされていた。
 相当広い部屋に、笑い声や叫び声が飛びかわしていた。が、一空さまとお高がはいって行くと、騒動が一時にやんだ。みんな澄ました顔をして、机にむかいだした。ふたりの来たことに気がつかない二、三人の子供だけがいたずらをつづけていた。
 一空さまが、これから、隣室《となり》にできた遊び部屋をひらくから、そこで思う存分あばれるようにいうと、わあっと歓声があがった。そして、雪崩《なだれ》を打って、となり部屋へ駈けこんで行った。お高は、子供好きの龍造寺様がここにいたら、どんなにかよろこぶであろうと思った。そう思いながら、一空さまについて、子供たちにもまれて、その遊び部屋へ出て行った。
 子供たちは、一空さまの両手にぶら下がったり、丸ぐけを引っぱったり、背中によじ登ったりした。一空さまだけでは足らないで、お高にも、前後左右からまつわりついて来た。お高は、からだいっぱいに子供たちが成《な》ったような恰好で、一段低い板の間へおりた。
 そこは、広びろとして、木のにおいのする室《へや》であった。ちょっと剣術の道場のようであった。隅のほうに縁《へり》なしの畳が敷いてあって、すわることもできるようになっていた。窓からとんだりしないように、高いところに頑丈な武者窓があって、うすい陽の光が落ちていた。お高は、この大部分が龍造寺主計の喜捨でできたのだと思うとうれしかった。
 子供たちは、板敷きのうえにがやがや押しならんですわった。みんなすばしこく眼をうごかして、天井と壁と一空さまやお高の顔を、見くらべていた。
 ほかにも、来ている成人《おとな》があった。若い男女と、中年の女の人であった。若い男は、江戸川べりの古い仏具屋の息子《むすこ》で、普段から、一空さまの学房に何かと力を寄せている人だった。若い女は、その許婚《いいなずけ》の女であった。ふたりは、きょうのことを聞いて、子供たちを遊ばせに来たのだった。男が横笛を吹いて、女が、それに合わせて優雅な踊りを踊ったりした。男が、若い者にかつがせて来た菓子包みを、子供たちに配った。
 もう一人の中年の女の人は、やはり一空さまをあがめて、洗耳房に出入りして子供たちの世話をしている、お由《よし》さんという近所のおかみさんだった。お由さんは、しじゅうお高のそばにいて、赤い顔をしてはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]まわっている子供たちについて、何くれとなく話してくれた。
 一空さまは、子供たちに取りまかれて、あっちからもこっちからも引っぱられて、にこにこ笑っていた。針のように細い眼がいっそうほそくなって、すっかり見えなくなっていた。
 お高は、その、耳がわんわんする中で、さっき一空さまがいった、父や母のことを考えていた。母のおゆうが、とてつもない分限者であったというのが、どうしても腑に落ちなかった。それかといって、一空さまがふざけているとも思えなかった。人違いではなかろうかと思った。
 母のことは、顔も思い出せないし、何一つ遺品《かたみ》のようなものも残っていないのだ。が、父の相良寛十郎のことは、まるできのうまで生きていた人のように、そっくり思い出すことができるのだ。お高が、その父親の思い出を心のうちにころがしていると、大声にいっている一空さまのことばが、聞こえた。
「この喜捨をしてくれた人は、旅に出ておられんから代わりに、その人にこの洗耳房のことを話してくれた姉さまをお連れした。今その姉さまから、何か話があるから――」
 というのだ。一空さまは、笑って、お高を見た。子供たちも、大声をあげてよろこんで、お高のほうを見ている。お高は、どきまぎしたが、お由さんに促されて、にっこりしていい出した。

      六

「皆さんのお友だちは、龍造寺主計様とおっしゃるおさむらい様でございます。お帰りになりましたら、皆さんがこんなによろこんだことを、すっかりお話し申しましょう。そして、一度おつれして、この立派なお部屋をごらんにいれましょう」
 子供たちの歓声のなかで、お高は赧くなった。これで部屋びらきがすんで、仏具屋の二人も、お高に挨拶して帰って行った。お由さんがめんどうをみて、子供たちも、三々|伍々《ごご》洗耳房を出て行った。お由さんは、一人ひとりの子供に、いい聞かせていた。
「門前町で遊んでいてはいけません。道草を食うんではありませんよ。まっすぐお自宅《うち》へ帰るんですよ」
 そして、お高へささやいた。
「今夜あたり何がはじまるかわかりませんからねえ」
「和泉屋のことでございますか」
「そうですよ。あたしの来るときなんかも、通り全体がものものしいようすでしたよ」
「和泉屋には、ひとりもお客さんがはいっていませんでしたねえ」
「申し合わせて買いに行かないんですよ。買いに行く人があると、町内よってたかって半殺しにするというんですからねえ」
「まあ、こわい、そんなにむき[#「むき」に傍点]になっていますんですかねえ[#「ですかねえ」は底本では「ですからねえ」]」
「だってあきんどの身になれは、同じ町内にあんな大きな商売|仇《がたき》ができてみると、糊口《みすぎ》が立ってゆくかゆかないかの瀬戸ぎわですもの」
「むりがありませんよねえ」
「どっちへお帰りですか」
「すぐこの裏手の金剛寺坂でございますよ」
「では一度門前町へお出にならなければなりませんねえ。わたしも、門前町を突っ切るのですからそこまでごいっしょに参りましょうよ」
「ええ、ぜひごいっしょに参りましょう」
 町が物騒なので、一空さまが、金剛寺門前町を通りすぎるところまで送って行くことになった。三人がおもてへ出ると、楼門《さんもん》の向こうの町すじに、もう群衆がどよめいていた。風はやんだが、夕方が早く、暗くなりかけていた。
 わけもなく激昂した人々が、路上に、さっき一足先に帰った仏具屋の若い二人づれを擁して、悪口雑言を沸き立たせているのが、見えた。お由さんは、憤慨して、そっちへ走り出そうとした。
「まあ、何の関係《かかりあい》もない人を何でしょう。ちょっと行って、いってやりましょうよ」
 一空さまが、とめた。
「まあま、人は、寄りあうと、理解を失って群れさわぐものじゃ。うっちゃって置きなされ、それより、怪我《けが》せん算段が肝要じゃて」
 お由さんは、口をとがらせていた。
「いくら商売に困るからって、先方も商売じゃありませんかねえ。良い品を安く売るのに、邪魔だてをされては、買うほうが困りますよ。ほんとに、あんまりなことをすると、かえって、ついていた人気も離れますよねえ」
「こっちは、良い品物を安く買えたほうがありがたいんでござい
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