ると若松屋惣七が、呼びとめた。
「わしの従妹の歌子というのが、お前に会いたいというておるのだが、今夜いっしょに行かぬか」
「どうぞお供させてくださいまし。でも、歌子様は、わたくしのようなものはおきらいでございますまいか。歌子さまとおっしゃいますのは、よく旦那様がお噂なさいます、あの、薙刀《なぎなた》や柔術《やわら》のおできになる方でございましたね」
「そうだ。近く片瀬の龍口寺へ詣《まい》ると申しておった。きのうは久しぶりに会うて、お前のことをいろいろ話してまいった」
お高は、さっと暗い顔になった。若松屋惣七は、それを感じて、いそいで話をついだ。
「いろいろと申したところで、例の、お前が知られたくないと思っておることは、いいはせぬ。しかし、それも、考えてみると、皆に聞こえたところで、いっこうさしつかえないではないか。お前が、かの磯五という極道者につながれておるということは、何もお前の罪ではないのだからな」
「いえ。そればかりは、わたくし」お高の声は、苦痛と恥辱で、今にもこわれそうだ。「考えるのもいやなのでございますから、どんなことがありましても、人さまに知られたくはございません。そんなことをお話しなさるようでしたら、今夜歌子さまのお屋敷へ伺うことも、御辞退申し上げますでございます」
「うう、いや。それほどいやなものを、強《た》って話すとはいわぬ、わたしはただ、お前と歌子は、よい話し相手になるであろうと思うのだ。いずれそのうち、その気になったら、磯五のこともお前から話しておくがよい。あれは、何を打ちあけても、安心のできる女である。もうよい。休息して、夕刻を待つのだ」
お高と歌子の会談は、若松屋惣七が望んだ以上に成功であった。自分の女を、家族や親類の女に引きあわすのは、なかなかの難事業である。難事業であるといって、それをしないでいるために、そこにあらゆる誤解が発生して、多くの男は、それで手を焼くのだ。
若松屋惣七は、歌子が一目でお高に厚意をよせ出したらしいのに安心して、ひとまず先に帰ったのだった。
お高のうつくしさは、女の歌子をも惹きつけるに十分だったのだ。歌子は、じぶんがあまりきれいでないので、きれいな顔には、ふだんからあこがれのこころを寄せていた。それにお高は、その夜はことに美しく見えた。お高は、若い鹿《しか》のようにしなやかだった。黒い大きな眼が、興奮と気配りとで、濡れた碁石のようにつやつやしく光っていた。それは、お高の内側に、何か火が燃えているような感じだった。
若松屋惣七が帰ってから、歌子とお高は、奥の座敷にすわって、長いこと話しこんだ。お高の眼は、同性の歌子をさえ魅了する眼だった。お高が帰ることになったので、庭から出て柴折戸《しおりど》のところまで送って行きながら、歌子は、自分が、お高のその眼と、ころがるような澄んだ声とに、すっかり包まれているのを意識した。
お高を見送って、引っかえすとき、歌子はつぶやいていた。あの女は惣七様を想っている。それはわかるけれど、いっしょになれない事情というのは、何だろう? 夜っぴて歌子は、そのことを考えた。が、どうしても想像できなかった。
惣七さまに、ほかの女のことで引っかかりがあろうとは考えられない。あれほど思いあっているようすなのだから、はやく立派に夫婦になればいいのに、それがそうはゆかないというわけが、歌子にはどうしてもわからなかった。よく気をつけて、二人を見ていることにしよう。そう思った。
お高が金剛寺坂の家《うち》へ帰って来ると、若松屋惣七が起きて待っていた。
「ほう。ちょっと違った顔を見ただけでも、お前は顔いろがようなったぞ」はいって来たお高を見て、若松屋惣七がいった。「すこし出て、人に会うがいいのだ。この屋敷に、女というてはお前ひとりだから、女同士の細かい話もならず、それで気がふさぐのだ。ちょいちょい歌子のところへ遊びに出かけるようにするがよい」
全く、見ちがえるようにいきいきしたお高になって、帰って来ていた。このころできた、口のまわりの小さな悲しい皺が消えて、眼が、敏活にきらめいていた。繊細な蒼白い顔に、血のいろがうかんでいた。
「歌子様は、ほんとに面白い方でございます。あしたも、夕御飯におよびくださいましたが――」
「そうか。それは行かねばならぬ。ぜひ行きなさい」
若松屋惣七は、従妹とお高が親しくなりそうなのをよろこんで、珍しく上機嫌だった。
四
あくる日、歌子の家の夕飯から帰って来ると、お高は興奮を隠して考えこんでいた。眼をかがやかして、家じゅう歩きまわった。下男部屋へ顔を出して、佐吉や国平や滝蔵などと二こと三こと話し合っては、けたたましい笑い声をたてた。そこへ、若松屋惣七が自分で呼びに来て、お高を奥へつれて行った。長い廊下を惣七につづいて歩きながら、お高がいった。
「旦那さま、歌子様が片瀬の龍口寺とやらへお詣りにお誘いくださいましてございます」
若松屋惣七の剃刀《かみそり》のような顔が、にっこりした。
「うむ片瀬へ? それは面白い。どうじゃ、おれのいったとおりであろう、どうもお前たちふたりは仲よしになるであろうと思ったのだ」
「はい、それはもう仲のよいお友達になりましてございますけれど、でも、歌子様のお客さまになって旅をいたしますのは気がねでございますから、おことわり申し上げましてございます」
「歌子の客というのは、どういうことかな」
「路銀をすっかりお持ちくださるとおっしゃるのでございます」
「路銀と申したところで、相州であるから知れたものだ。出すというなら、出させておいてよいではないか」
「いえ。それでは、わたくしの気が済みませんでございます」
「馬鹿堅いことをいうな。そんならおれが出してやろう」
「こちら様にはお仕事がございますし――」
「それも、おれがよいと申したら、それでよいではないか」
「でございますけれど――」
二人は、お高の部屋へ行って、むかい合ってすわった。若松屋惣七が、いいつづけた。
「お高、お前は何か、一日も江戸を明けられぬわけでもあるのかな」
「いいえ、そんなことはございませんが――」
「それならば、遊山かたがた参詣《さんけい》に行け。おれも行くのだ。一日でも二日でも、土地が変われば気もちもあらたまる。わしに、麦田一八郎に、お前に、歌子に、大久保の――」
「でも、旦那様、お高は参られませんのでございます」
「なぜだ」
「なぜでも参られませんのでございます」
「だから、なぜだときいておるのだ」
お高は、しばらくうつむいていた。低い声でいった。
「旅をしては悪いのでございます」
「旅をして悪い――?」
「はい。旅をしては悪いからだなのでございます」
若松屋惣七は、その意味を考えて、うかがうようにお高のほうへ顔を向けた。
「そうか」
と、いった。お高は、膝で歩いて、若松屋惣七のほうへ寄って来ようとした。若松屋惣七が手を出してそれを助けたので、ふたりはすぐ畳のうえの影を一つにして、じっとなった。それきり、両方とも同じことを考えて、黙っていた。
お高を残して、四人で行くことになったけれど、くるはずの紙魚亭主人もまだ来ないし、大久保の奥様の風邪も思ったより長びいているので、龍口寺詣りのはなしは、そのままぐずぐずして、一時立ち消えの形だった。
じっさい、人に旅を思わせる好天気がつづいて、江戸の空は、藍甕《あいがめ》の底をのぞくように深いのだ。朝早く、金剛寺の森にうぐいすが鳴く。夜も昼も、草木の呼吸する音が聞こえるような気がした。そんな毎日だった。
お高が、縁側へ古い手紙類を持ち出して、一応眼を通したのち、一つひとつ丹念《たんねん》に破いているところへ、玄関に人声がして、国平が取り次ぎに出た。お高は、手紙を巾広く破いておいて、あとで、それを折ってはたき[#「はたき」に傍点]をこしらえましょうと思って、そのとおりに気をつけてやぶいていた。うしろへ、国平が来てうずくまった。
「一空《いっくう》さんが、おめえ様に会いてえといってお見えになったのです」
「一空さん――」
お高は[#「お高は」は底本では「お高い」]、不意に思い出せないで、眉を寄せて、考えた。
「へえ。裏の金剛寺の一空和尚なのですよ」
「まあ、あの和尚さまが来たのですか。それで、わたくしに御用がおありだとおっしゃるの。上げてくださいよ。お座敷へお通し申しておくのですよ。えらい坊さまですから、失礼のないようにねえ」
洗耳房《せんじぼう》
一
「では、一空さまをこちらへ」
まもなく、まるい顔に細い眼を笑わせて禅師が、その部屋にお高と向かいあってすわっていた。
「だしぬけにまいって、お邪魔ではござらぬかな」
「いいえ。どういたしまして」
お高は、金剛寺の境内などで、両三度この坊さまを見かけたことはあったが、こうしてそばでしげしげと見るのは、はじめてであった。おかしい人だとばかり思っていたのが、何だかなつかしい人だと思った。こういう坊さまだからこそ、じぶんの費用で学房などをひらいて、近所の子供と仲よしになっているのだと思った。
「じつは、先日|洗耳房《せんじぼう》のために喜捨《きしゃ》してくれたお武家が、当屋敷に厄介になっておると聞いて、礼をいいかたがた、ぜひ見てもらいたいものがあって来たのだが、いま玄関で聞けば、あの人はもうおらんという。そこで、代わりにあんたに会うてみる気になった」
洗耳房というのは、寺内に結んでいる一空和尚の庵室のことであった。そして、そこへ近隣の小児《こども》たちをあつめて、学問を教えているのだった。
お高は、龍造寺主計を思い出して、また妙に胸がはためいた。
「龍造寺様でございますか。あの方でしたら、東海道の掛川のほうへおいでになりましてございますよ」
「発《た》ったあととあっては、よんどころない。あの金で、餓鬼《がき》どものためにいいものをこしらえてやったので、見てやってもらおうと思ったのじゃが」一空さまは、残念そうな顔をした。「いや、あんたがわしのところを教えたのだそうじゃから、あんたでも同じことだ。全く、ありがたい喜捨であった。あらためて、礼をいう」
一空さまは、ひとりでつづけた。
「あの金で、洗耳房を建て増ししてな、餓鬼どもの遊び部屋に当てごうたのじゃ」
餓鬼ども餓鬼どもと一空さまがいうのは、洗耳房へあつまってくる学童たちのことであった。学童たちは七、八つから十五、六の男女のこどもであった。おもに近所の子供らで、武士の子も、町人の子も、職人の児《こ》もあった。一空さまにとって、そういう区別はないのであった。
「きまった遊び場がないと、寺内でふざけまわってどうもそこここを汚損し、庭に出ては木石をいためるので本院の番僧はじめほかの房から苦情が出てかなわん。というて、往来《まち》で遊ばせるのはあぶない。ことに、このごろのように石や瓦《かわら》が飛んで、何どき騒ぎが持ち上がらんともわからんときに、餓鬼どもを道路《みち》で遊ばせておくのは、よろしくないでな。道場のような遊び場を建ててやりました。やんちゃども、大よろこびで、きょうはその部屋びらきじゃ。さわぎをやりおる。見に来られんか」
石や瓦が飛びそうな騒ぎとは何のことだろうとお高がきいてみると、何でも、金剛寺門前町に、このごろよろず屋というべき米、味噌《みそ》、醤油《しょうゆ》、雑貨から呉服類、草鞋《わらじ》、たばこまでひさぐ大きな店ができたために、従来の町内の小商人が、すっかり客をとられて難渋《なんじゅう》している。が、新店は資《もと》がまわるとみえて、諸式を安く仕入れて売るものだから、とても太刀《たち》打ちはできない。
そこで生活をおびやかされた土着の商人たちは、新店に対する憎悪と反感で結束して、ならずものなどを雇い今夜にも新店へなぐりこみをかけそうなうわさである。石や瓦の雨どころか、血の雨が降るかもしれないというので、この数日、付近は戦々兢々《せんせんきょうきょう》としている。そんなはなしだった。
「こういうわけじゃ
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