てみたいな」
「はい」
「わしは、近くひとりで、旅に出るかもしれぬ」
「あの、おひとりで」
「国平でも供につれようかの、眼の湯治に参るのじゃ」
お高が何かいい出しそうにすると、若松屋惣七は、うるさくなったらしく、気ぜわしく手を振った。
「あああっちへ行け。行け行けと申したら、早く行け」
お高は、若松屋惣七をよく知っているので、は、はい、といそいで答えて、ほほえみをうかべながら、逃げるように座をたった。
若松屋惣七は、雪駄《せった》ばきに杖をついて、金剛寺坂の家を出ていた。その杖は、佐吉が立ち木の枝を切ってきたもので、無骨にまがりくねっているのが、見ようによっては、風流にも見えるのだ。
若松屋惣七は、町人らしい縞の着物にその杖をついて、江戸川を渡って、築土片町《つくどかたまち》のほうから矢来下《やらいした》へ抜けて行った。陽がかんかん当たって、走りづかいの奴《やつこ》などの笑い声のする往来であった。武蔵野を思わせる草のにおいのする微風が、こころよかった。
若松屋惣七の変わったすがたに、行人の眼があつまっていた。彼は半|盲目《めくら》のくせに、がむしゃらに歩いて、足が早いのである。その自然木の杖をふって、怒っているように、なかば駈けて行くのだ。いつもこうなのだ。お先手組《さきてぐみ》の組やしきの前に、古びた冠木門《かぶきもん》があった。若松屋惣七は、家を間違わずに、そのくぐりを押してはいって行った。
玄関の前へ出ても、案内を乞《こ》おうとしなかった。そのまま、家について庭のほうへまわろうとすると、窓の障子があいて、女中らしい中年の女が顔を出した。
「どなたでございますか」
それは、面長の上品な女であった。窓のそとに杖を突いて立っている若松屋惣七を見ると、愛嬌《あいきょう》よくほほえんだ。
「歌子《うたこ》さまでございますか」
「おられますかな」
「おられますでございます」
若松屋惣七は、遠慮なく庭へ通って行った。女中は、家の中をいそぎ足に、その歌子という女《ひと》へ知らせに行くようすだった。勝手を知っているので、まもなく若松屋惣七が奥庭の縁さきまで来ると、そこの座敷に、もう歌子が来て待っていた。
「こっちへお上がりなさいましよ」
「うむ。ここで結構だ」
若松屋惣七は、上がろうとはしないで、縁側に腰をかけた。
「いけませんよ。そこでは何ですから、どうぞお上がりくださいまし」
歌子は、三十五、六の武家風の女なのだ。愛くるしい顔だちだが、からだつきは頑丈《がんじょう》で、肩や腕などまるまるとふとっているのだ。膚が陽に焼けていた。
旅心《りょしん》
一
歌子は、肩巾のひろい、色のあさ黒い女だ。せいが高くて、がっしりしている。鳶《とび》いろの眼と、ユウマアのみなぎった、人のいい顔をしてる。この年齢《とし》まで、独身を通してきた。長刀《なぎなた》の名手なのだ。渋川流《しぶかわりゅう》の柔《やわら》もやる。馬も好きで、男のように肥馬にまたがって遠乗りに出たりする。若松屋惣七の従妹《いとこ》である。
庭からまわって来た若松屋惣七を、にこやかに迎えた。若松屋惣七が武士を廃業する以前、ふたりは、伯父《おじ》の家《うち》にいっしょにいたこともあり、何事もうちあけて相談しあうなかなのだ。伯父は旗本だった。いまは歌子の弟が継いでいて、歌子は知行の分米《ぶんまい》で、ひとり者の女としては、かなりゆたかな暮らしをしているのである。この矢来下の家へ来てみると、いつものんきだった。
若松屋惣七は、しばらく歌子を訪れなかったので、あたりが、珍しいものに思われた。縁側に腰をおろして、しきりに庭を見わたしていた。
「旅に出たと聞いたが、いつ戻られたのか」若松屋惣七が、きいた。「江戸におったり、おらなんだり、去就《きょしゅう》風のごとくじゃから、いつ来ていいかわからん」
笑った。歌子も、その健康そうな顔を、ほほえませた。
「すこし信濃《しなの》のほうを歩いて来ました」
「ほほう。面白いことでもあったかな」
「はい、面白いといえば面白い。面白くないといえば面白くない――でも、ほこりっぽい江戸よりは、よっぽどましでございます。わたくしは、江戸がいやになると、すぐ旅に出ます。こんども、京都から南、山陽のほうをまわってみようかと思っております」
「気楽な身分だな」
「気楽ではないのですよ。退屈なのですよ」
「同じこった」
「そう。おなじことでしょうか」
ふたりは、声を合わせて笑った。
「で、いつたつのだ」
「京都のほうは、まだ先のことです。その前に、片瀬《かたせ》の龍口寺《りゅうこうじ》へお詣《まい》りして来ようと思っておりますが、同伴《つれ》ができましてねえ。大久保《おおくぼ》様の奥さまが、いっしょに行きたいといい出したのですよ」
「龍口寺とは、また奇特だな。えらい信心ではないか」
「信心も信心ですが、そういっては悪いけれど、遊山半分なのですよ。一度も、行ったことがありませんからねえ」
「ついでに、江《え》の島《しま》をまわってくるといい。おれも、行きたくなったな。行こうかな」
「そうですよ。ごいっしょに参りましょう。江の島へ寄って、ゆっくり遊びましょう」
「しかし、おれのほうは、すぐ行くというわけには参らぬのだ。友だちが来ることになっているでな。あの、紙魚亭《しぎょてい》の主人じゃ」
「麦田一八郎《むぎたいっぱちろう》さま。存じております」
「そうだ。お前も、知っているな。きやつが、久方《ひさかた》ぶりに岩槻《いわつき》より出府して参って、たずねると申してきている。待たずばなるまい」
「それは、好都合でございます。わたくしのほうも、いまいった大久保の奥様が風邪《かぜ》でふせっていらっしゃるので、それが快《よ》くなるのを待っているのですから。では、麦田様がお見えになったら、ぜひおつれになって、同行四人で、にぎやかにまいりましょうよ」
「うむ。そういうことにしようか」
「そうしましょう。麦田様は、面白い方ですから、大久保の奥様も、およろこびになるでしょうし、旅は大勢のほうが、笑うことが多くて、ようございます」
「それは、そうだな」
若松屋惣七は、何か考えこんでいて、急にいたずら好きな口調を帯びてきた歌子の声に気がつかなかった。しばらくして、若松屋惣七がつづけた。
「紙魚亭は女ずきのするやつだ。お前も、長いこと彼に会わんであろう。以前《もと》は、だいぶ仲よしであったな」
「はい」
歌子は、ちょっとしおれて見えた。若松屋惣七は、急に鋭い眼を向けた。
「お前は麦田と仲たがいになっておるようだが、何か、つまらぬ争いでもしたのか」
「いいえ。なぜそんなことをおききになります」
「いや。もしそうであったら、いっしょに旅するのもいかがなものかと思って――どうじゃ、気まずいであろうが」
「決してそんなことございません。ほんとに、麦田さまはいい方ですし――」
「もとはお前、一八郎さんと呼んでおったではないか」
「でも、おたがい年をとりますし、それにこう離れていますと、だんだん遠くなりますよ。それよりお眼のほうはいかがですか」
「悪くもならんが、よくもならん」
「困りますねえ」
「困る」
「そんなにおひとりで出歩いて、およろしいのですか」
「用があって、参った」
二
「はい。どういう御用でございましょう」
若松屋惣七は、ちょっと切り出しにくそうにした。相手が、あんまり事務的だからだ。若松屋惣七は、まぶしそうな眼を、歌子のほうへ上げた。
「女をひとりつれて参るが、会ってやってくれぬか」
「女の方――ええ、おあいしますとも」が、歌子はすこし不思議そうな顔をした。「でも、どういう方でございます」
「可哀そうな女なのだ。今後いろいろ、相談に乗ってやってもらいたい」
「それはもう、わたくしできますことなら、何でも――どなたでございます」
「うちの女番頭である」
「すると、あの、お高さんとかいう――」
「そうだ」
歌子の額部《ひたい》を、迷惑そうな色が走り過ぎた。彼女は、お高をよく識《し》っているわけでない。いや、よく識らないからこそ、この独身の従兄《いとこ》の家《うち》へ女番頭として住みこんでいるということだけで、お高を、何か色じかけのわる者かなんぞのように、気をまわして考えているところがあるのである。
若松屋惣七にははっきり見えないから、歌子は安心して、いやな顔を隠そうとしなかった。
「あわれな女でな、いつもひとりで、屋敷にくすぶっておる。気散じに話し合う友達をつくってやりたいと思うのだ。龍口寺まいりにも、加えてやりたいと思うが、どうであろう」
「結構でございましょう」
それきり歌子は、ぽつんと黙りこんだ。
「しかし」若松屋惣七が、いっていた。「どこまでも、女の雇い人であってみれば、わしから供を申しつけるというわけには参らぬ。ここはひとつ、お前から出たことにして、どうだ、誘ってみてはくれぬか」
「結構でございましょう」
「では、承知してくれたな」
「なぜそんなにおつれになりたいのでございます」
「保養をさせてやりたいのじゃ」
「まあ、親切な! ほんとに、親切なお主ですねえ」
「妙に思うかもしれんがあの女については、いずれお前にも話すが、いろいろ事情がある」
「そうでございましょうとも。いろいろ御事情がおありでしょうとも。あなたは、あのお高さんがお好きなんでしょう?」
「心のいい女だ。お前にも、決して迷惑をかけるようなことはない。心配せんでもいい」
「それはよくわかっております。そんな心配は致しません。でも、ずいぶんお気に入りのようですねえ」
「ふむ。まあ、気に入っておるな」
「奥様にあそばすお考えですか」
「そうもなるまい。そこが事情じゃ。ただあの心痛の多い女を残してわしひとり面白おかしく旅をする気になれんのだ。このごろは、誰しもちょっと江戸を離れて、田んぼ路《みち》でも歩いてみたくなる季節だからな。わしは、あれに相模《さがみ》の海を見せてやりたい」
「結構でございましょう。では、どういうことにいたしますか」
歌子は、さっぱりした女だ。若松屋惣七のお高に対するざっくばらんな愛を聞かされて、彼女自身ほがらかな気もちになりつつあるのだ。
若松屋惣七のいかめしい顔に、笑いがひろがった。
「都合がよければ、明晩ここへつれてまいる。お前とお高は、きっと仲のいい友達になるであろうと思う。わしが考えると、よく合うところがあるのだ」
「さようですか。それでは、わたくしも楽しみにしております。わたくしのほうは、いつおつれになっても構いませぬ」
「それとなく、龍口寺まいりのことを切り出してくれ。お高は、さびしがっているのだから、すこし厚意をみせてくれれば、すぐなつくことであろう。からだも、あまりよくないようである。何とかして、旅に出したいと思うのだ」
歌子は、もう晴ればれとした顔をしていた。
「承知いたしました。明晩おつれなさいまし」
女中が茶を運んで来て、ふたりは黙って茶を飲んだ。茶を飲みながら、若松屋惣七は、考えた。この歌子と、あの紙魚亭主人の麦田一八郎と、あれほど仲がよかったのが、どうしてこう遠いこころになったのであろう。去るもの日々にうとしというだけのことであろうか。似合いの夫婦である。今度の旅の機会に、何とかまとまればよいが。
歌子も、茶を飲みながら、考えていた。歌子は女らしい女といえなかった。こまかいことはわからないが、それでも、男のこころというものは、何という不思議なものであろうと思った。この頑固な従兄が、今になって一人の女に柔かい心を向けている。歌子は、それがおかしかった。
そのお高に、何かしら事情があるという。事情のある女なんか、よしたがいい。歌子は若松屋惣七のためにそう思った。歌子は、簡単な女なのだ。そう思って、若松屋惣七を見ると、庭におどる日光を感じた若松屋惣七の眼が、ひくひくまばたいていた。
三
朝、帳場になっている奥の茶室へ、お高が仕事のことで来て、すぐ出て行こうとす
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