て帰ってしまって[#「帰ってしまって」はママ]、じぶんは、眼立たないように路地に立って、父の久助の出て来るのを待っていたのだった。
向こうから三人づれの侍《さむらい》が来たので、父娘は道の端によけて通った。三人の足音がうしろのやみに消えてしまうのを待って、久助が、低い早ぐちでいった。
「お駒、父に得心のいくように話してくれ。おめえはさっきおれに、あんなところで何をしているときいたがおれこそ、それをおめえにききてえのだ。あの美男《いろおとこ》の妹などと触れ込みやがって、いずれまたろくでもねえ芝居をたくらんでいるのだろう。いいやそれにちげえねえ。
考えてもみるがいい。どこの世界に、おのが娘にへいつくばって給仕をする父親《てておや》があるものか。お駒さまが寒気がなさるから熱燗を持ってこいもねえものだ。おめえは主人の客、おいらは奉公人、しかたがねえからばつを合わせてへいこら[#「へいこら」に傍点]仕えてるようなものの、実の親を使い立てしやあがって、罰当たりにもほどがあらあ」
「知らずに行ったら、出て来た変わり者の板さんというのがお父つぁんだったんだから、わたしも驚いたけれど、ああするよりほかないじゃないか」
「聞けあおめえはあの磯屋の旦那の妹てえ看板だそうだが、親のしらねえ兄というのがあってたまるか。おおよそ察しのつかねえこともねえが、いってえどういうわけだ。おめえという女はしたたか者になるに相違ねえと、おれあいい暮らしたもんだが、おふくろが先に眼をつぶって、おめえのこの欺《かた》り同然のしわざを見せねえですむだけが、せめてもよ」
「そんなこといわないでおくれよ」お駒ちゃんの声はちょっとさびしそうだが、別に肉親の情愛がこもっているでもない。
「何も悪いことをしてるわけじゃあないんだもの。ほんとに、何も悪いことをしてるんじゃないよ」
「じゃあ、何をしてる。正直にいってみな。御大家のお嬢さんの装《なり》をして、金持ちの家へ客に来て、とんでもねえ化けこみをしてやがる。いっていこの二年ほど、おめえは江戸のどこにくぐって、何をしていたのだ。熟《う》んだともつぶれたとも、たより一つよこさねえのはどういうわけだ。
おれはおめえに、できるだけのことをして、嫁の口でもあったら、相当のところへ片づけようと、そればっかりを楽しみにこの年齢《とし》になるまで働いてきたんだ、その親を置きざりに勝手に突っ走って、二年も梨《なし》のつぶてとは、それですむと思っているのか」
お駒ちゃんは、歩いている足もとを見て、微笑した。
「そんなことは、知っていますよ。それだって、父娘《おやこ》の仲だもの、あたいが父《おや》にお礼をいわなくっちゃならないってわけも、なかろうじゃないか。はいはい、苦労をかけてすみませんでしたよ。おわびをしますよ」
「ちっ、何てえいい草だ――」
「だって、お父つぁんもむりじゃあないか。あたいはこの二年間、何とかして身すぎをするのに精いっぱいだったんだからね」
「おめえの辛苦は、心柄というものだ。それより、肝腎《かんじん》のおれのきいたことに返答をするがいい。家を出てから、何をしていたのだ。ちょっと顔出しをするとか、せめていどころぐれえは知らせてもよかりそうなものじゃあねえか。何だってまたわれから家を追ん出たんだ」
二
「うちにいたんじゃあしたいようにできないからさ。おんな歌舞伎《かぶき》のほうに出ていたんだよ」
「やれやれ、あきれたもんだ。おいらも、河原者を娘に持とうたあ思わなかった。こちとらあしが[#「しが」に傍点]ねえ稼業《かぎょう》には相違ねえが、それでも、板の久助といやあ、ちったあ人様に知られもし、可愛がられもしたもんだ。
なあお駒、いつもいうことだが、人間にあ二種あってな、人を使う身と、人様に使われる身と、これあおめえ、はっきり別れているんだぜ。そこがそれ、生まれというもんで、生まれながら人を使う上の方と、生まれながら人様に使われるおれたち風情《ふぜい》と――」
「何をいってるんだい。あたいは人に使われるなんて大きらいさ。性分だからしかたがないじゃないか」
「さ、それ、そのおめえの性分てえのが面白くねえ。まあ聞け、お駒。考えてもみるがいい。人に使われる身よりあ、人を使う身のほうがどんなにいいかしれやしねえと思うだろうが、そこが世の中でな、使われる身のほうが、使う身よりも、なんぼうか気やすで楽なのだ。
いい家《うち》へ奉公をして、御主人様の、気に入られてみねえ、それこそ、面白おかしく日が送れて、またどんないい目をみねえものでもねえ。出世をして、人を使う身になってみたけりゃあ、そこは心がけ一つで思いがけねえ出世をしねえとも限らねえ。
そこへいくと、ことに女子《おなご》は、野郎とは違って、大きに芽を吹くことも早けりゃあ、そのためしも、世間にままあるのだ。おんな氏《うじ》なくして玉の輿《こし》に乗るたあ、そこんところをいったもんだろうじゃあねえか。いい引きがあって、やっと住み込ませてやったあの藁店《わらみせ》の吉田屋さん、あれはおめえ、どうして出たのだ」
久助の話を聞いていると、下女奉公がこの世でいちばんやり甲斐のある仕事であり、出世の最好機会のように聞こえるのだ。お駒ちゃんはそれがおかしくってしようがなかったが、また、お父つぁんとしては、むりもないことだと思った。
自分でもいっているとおり、久助は世の中の人間をかっきり[#「かっきり」に傍点]上下に二大別して、じぶんたちはその下のほうに属するもの、そしてこの区別と所属は絶対不可変のものときめて考えているのだった。それは、使用人の家として続いてきていて、いまこの久助の体内に流れている血のことばであった。
久助にとって、まじめに奉公をして、主人と、朋輩に可愛がられて、いくらか自由のきく晩年を持って飼いつぶしにされるよりほかに、人生はないのだった。それが最大の理想なのだった。他の生き方は、考えることさえもできなかった。だから、自分の家から、人に使われることをきらってこの区別を乱そうとする大それた冒険者がお駒という形で現われたということは、彼には驚異であり、悲嘆でさえあった。
久助はお駒ちゃんを瀬戸物問屋の吉田屋で立派な小間使いに仕立てて、やがて見込みのある番頭とでもいっしょにさせてもらって、自分は老後庖丁を離れてそれにかかろうと思っていたのだ。ところが、お目見得に行っているうちに、何かよくないことをしでかしたとかで、お駒ちゃんは吉田屋をお払い箱になったきり、家へも帰らず、そのままいなくなってしまったのだ。
これは二年前のことで、二年後の今夜、久助が雇われて行っている拝領町屋のおせい様の家へ、おせい様の情夫《いろ》の日本橋の太物商磯屋五兵衛といっしょに、その磯五の妹として御馳走になりに乗りこんで来たのを久助が見ると、それが娘のお駒だった。
吉田屋のことをいい出されると、お駒ちゃんは困ったように笑って、
「だって、お父つぁん、あれはしかたがなかったんだもの。へんなことがあってねえ。他の女中が悪いことをして、あたいに濡れ衣《ぎぬ》をきせたんだよ。あのまたおかみさんという人も、あんまり眼がなさ過ぎるじゃないか。そいつのいうことばっかり真に受けて、あたいのいうことは取り合わないのさ。馬鹿々々しい。誰がこんなところにいてやるもんかと思ってね、いいかげんあきてもいたところだったから、ぷいと飛び出しちゃったの。
お前は、あの吉田屋を御殿のように思っているようだけれど、あんな家、奉公人には地獄だよ。でも、いくらそんなこといったって、お父つぁんは眼の色をかえて怒るにきまってるから、当分あたいのしたいようにしてみて、何とか眼鼻がつくまで、自家《うち》のまえを通っても、知らん顔をしていよう。そのうちこっちから挨拶に出て――」
「待ちな。その吉田屋さんで起こったへんなことてえのは何だ」
三
「あっ、そのこと。何でも、おかみさんの物がなくなって、あたいの行李《こうり》から出てきたとかいうんだよ」
「とかいうんだとは、まるで他人事《ひとごと》みてえじゃあねえか」
「そうさ。あたいはちっとも知らないことなんだもの。ほかの女中がそっと盗《と》って、あたいの荷物へいれておいて、ないって騒ぎ出したのさ。あたいを追い出そうというんで、一狂言かいたんだよ」
「おめえは覚えのねえことだという証《あか》しを立てて出て来たんだろうな」
「でも、証しの立てようがないじゃないか。みんな向こうへついていて、おかみさんなんか、頭からあたいを泥棒あつかいにするんだもの。何が何だか、あたいにゃさっぱりわかりやしない。ほんとに、奇妙な話だねえ」
久助は、ぎっくりした。急に立ちどまって、闇黒《やみ》を通してお駒ちゃんの白い顔をみつめた。
「お駒、ほんとにおめえは、おぼえのねえことなんだろうな」
うたがいが、久助の声に恐怖を持たせた。お駒ちゃんは、あっさり受け流した。
「何をいってるんだい。いやだよ、お父つぁん。お前までそんなこというのかい。何ぼ何だって、あたいは泥棒じゃありませんからね。みんな仲間の女中が仕組んだことさ。見えすいてるじゃないか。それだのに、あのお民ってお内儀《かみ》さんに、そこんとこを見分ける眼がなかったから、いっそのこと、あたいが出たまでのことさ」
久助は安堵《あんど》の吐息をもらして、
「ほんとにおめえが盗ったのでなけりゃあ、それはそれでいいとして、それからどこで何をしていた。二年といやあ、決して短え月日じゃあねえ」
「そりゃお父つぁん。これでもいろんなことがあったよ。阿国歌舞伎《おくにかぶき》で、あちこち打ってまわったり、ものまねのようなことをしてみたり――」
「だが、今は芸人じゃあるめえ」
「こういうわけなの。お父つぁんは、何かあたいが悪いことをしてるように考えてるから、話しにくくってしようがないけど、べつにわるいことをしてるわけじゃあないんだよ。早くいえば、こうなのさ。あの磯屋の旦那の五兵衛さんて人に見込まれてねえ、ちょっと助《す》けに行ってあげているんだよ」
暗いので、よく見えないのだが、久助は、お駒ちゃんの顔に眼をすえているらしかった。
「見込まれたって、おめえのどこがそんなにいいのかおれにあさっぱりわからねえ。顔かい」
「顔もいいけれど、からだがいいんだって」
「へっ、あきれたことをぬかすやつだ。恥を知るがいいや」
ほんとにあきれ返ったように、久助が吐き出すようにいうと、お駒ちゃんはげらげら笑い出して、
「妙な感違いをしないでおくれよ。からだといったって容子《ようす》がいいっていうまでのことさ。ほんとに、お前は話がわからないから、いやになっちまうよ」
「いま何をしているかって、それを聞いているんじゃあねえか」
「だから話しているんじゃないか、へんないきさつがあってねえ、でも、心配おしでないよ。悪いことじゃないんだから。あたいはいま磯屋の人間さ」
「ふん、妹でもねえものが、妹という触れ込みでな。これはいってえどういうわけだ」
「それはね」と、お駒ちゃんはごまかすように、「商売上、そうしておかないとぐあいのわるいことがあるからさ」
「てえげえ察しがつかあ。おいらの主人のおせい様をだまそうてんだろう。磯屋の旦那はおせい様といっしょになるんだってえじゃあねえか」
「そうだとさ」
お駒ちゃんはためらって答えた。
「そうだとさって、よく知らねえのか」
「よくは知らないやね。人のことだもの」
お駒ちゃんがいやな顔をすると、久助は、せせら笑いながら突っこんだ。
「人のことって、兄貴のことじゃあねえか。それあそうと、おめえが磯屋さんの妹ってえのが、おれにあまだ腑《ふ》に落ちねえ」
「いいじゃないか。そんなことうるさくきかなくったって。おせい様は、呉服太物の商売には、流行《はやり》の色や柄を見る、女の眼が光っていないと、安心しないんだとさ。だから、磯屋さんは、そんなことに眼のきく妹があるっていってしまったの。だから、あたいがちょっと頼まれてその妹になっているのさ。
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