のお駒ちゃんをも、気の毒に思うのだった。黙って磯五を見上げた。
磯五が、いった。
「きょうは店が忙しかったので、お駒ちゃんはくたびれているのですよ。なあ、お駒ちゃん、おせい様もせっかくああいってくださるんだから、先に失礼したらいいじゃないか。駕籠をそういってもらうから、支度をしなさい。わたしが、そこまで送って出て、駕籠へ乗せてあげる」
おせい様と二人きりになりたかったので、磯五がそういうと、お駒ちゃんはおとなしく帰る支度に立った。おせい様と磯五と、婢《おんな》たちが戸口まで送って出た。お駒ちゃんはいつになくしんみりしていて、おせい様にも丁寧に別れの挨拶をした。ついぞないことなので、磯五は、そういうお駒ちゃんを不思議そうに見ていた。おせい様も、何だか勝手が違って、まごまごしていた。
磯五が往来《そと》までいっしょに出て、お駒ちゃんを駕籠へ乗せた。駕籠は、もう呼ばれて来て、ふたりの駕籠かきが、息杖《いきづえ》を突いて待っていた。久助が格子《こうし》をあけたまま、小腰をかがめて見送っていた。お駒ちゃんを送り返して、引っかえしてくると、磯五は久助の横を通って家《うち》へはいりながら笑った。
「妹だが、ちとからだが弱いんでな、騒がせてすまなかった」
「それはいけませんね」
久助はそういって、何かにやにやしながら手をもんだ。
四
高音というものが現に生きている以上、じぶんに妻のあることを、おせい様にも、そうそう隠してはおけまいと磯五は思った。おせい様は、高音からも若松屋惣七からも、そこまではいわれて、半信半疑でいるはずなのだ。そして、いつかは何らかの形ではっきり知れることとすれば、他人の口からわからせるよりも、いまのうちに自分が打ちあけたほうがおせい様も気をよくするだろうと思った。
どうせ磯五は、はじめから夫婦になる気はないのだし、夫婦になれないとわかっても、おせい様から金を引き出すほうには、いっこうさしさわりないと考えているのだから、いっそ今夜話してしまおうと思った。
ただ、あの若松屋の女番頭のお高というのがそれだと知れると、すこし細工がまずくなるのだけれど、お高はじぶんでいいっこないし、若松屋惣七という盲人《めくら》はお高を想っているのだから、このことは、あいつからももれる心配はあるまい。
磯五は、男女のことにかけては、いつも眼を大きくあけているのだ。その眼で見ると、高音と若松屋惣七は、大きに熱い仲であることがわかる。それはそれで、面白いことだと、磯五はにっこりして、おせい様の待っている奥の座敷へはいって行った。
おせい様は、灯をみつめてすわっていた。
磯五は、着ている洒落た着物に衣《きぬ》ずれの音をさせて、その光のほんのりしている座敷へはいっていった。
おせい様は、その男ぶりをあがめるような眼つきで、磯五を見た。磯五は、それにはわざと知らん顔をして、おせい様の近くへ行ってすわった。やっと二人きりになったとき、相手の期待に反して、ときどきわざとよそよそしいふうを見せるのが、ますますその女をたまらなくさせるのだった。こうして、女のほうから追っかけて来るようにしむけるのが、磯五の手だった。
「どちらか湯治にお出かけになるというようなおはなしでしたが――」
磯五がいった。おせい様はそれに答えるまえに、お駒のことをきいた。おせい様は、真剣にお駒ちゃんのことを心配しているのだ。
「お帰りになりましたか。たいしたことでなければよろしゅうございますがねえ」
お駒ちゃんのことなど、もうけろりと忘れていた磯五は、びっくりした。
「何です、おせい様、誰のことです」
「あれ、いやでございますよ。お妹さんのお駒さんのことですよ」
「ああ、お駒ですか。よろしくと申して帰りました。いつもよくいい聞かせているのですが、あれも気の勝った女で、商売が忙しくなると、つい何から何まで、一人で引き受けてからだを動かさないと気がすまない性《たち》なので、ときどきやられます。困りますよ」
「ほんとに、お気をつけてあげなすってくださいましよ。わたしにとっても、たった一人の大事な妹でございますからねえ」
おせい様がしんみりそういうと、磯五も、しおらしくうなだれた。おせい様は磯五の問いを思い出した。
「もうすこしおあったかになったら、どこか近いところへ遊びに行きたいと思っていますよ。あなたもおいでなさいましよ」
「いや。いまは店の仕事が立てこんでいて、とても抜けられません。春の仕入れで、いそがしい盛りなのです」
磯五は、家業大事という顔をした。おせい様が、失望をうかべて、すねるように何かいい出そうとすると磯五が、つづけた。
「おせい様、とんでもないことがわかりました。びっくりなすっちゃいけませんよ。家内がまだ生きているんです」
「家内って――あなたのお内儀さんが?」
「そうですよ。知らせてくれた人があって、わたしもはじめて知って驚いているんですが――いや、仮にも女房ともあろうものが、そうして生きているくせに、今まで居どころも知らせないなんて、何ぼあんなやつでも、そんな義理知らずなことをしようとは、わたしも思わなかったものですから、てっきり死んだものとばっかり――」
「でもおなくなりなすったという報《しら》せがあったというお話でございましたね」
「それが、まちがいだったんです」
「それがね、ええまあ――」
おせい様は、ふっとすすり泣きでもはじめそうな、動揺した表情になった。磯五は、じぶんの膝のうえにおせい様の手を拾いあげた。むりにつくったおせい様の笑顔が、磯五の顔へ寄ってきた。その耳へ、磯五がささやいていた。油を落としたような、すべりのいい声だ。
「困りました。こんなに困ったことはございません。おせい様よりも、わたしのほうが苦しゅうございます。お察しくださいまし。決して、前から知っていて、あなたに隠していたわけではありませんが、そう思われはしないかと思うと――」
「そんなことは、思いませんよ。ご存じなかったのはあなたの罪ではございませんもの。そのお内儀さんにいろいろひどい眼に合わされて、お気の毒でしたねえ。こんないい方を、そんなに苦しめるなどと、何というわるい女《ひと》でございましょう。その人が生きていらしっても、わたしの思いはちっとも変わりませんよ。変わらないどころかいっそう――」
「おせい様、それを伺って、安心いたしました。あんなやつでも、まだ女房となっている女が生きておるとすれば、わたしは、ご存じのとおり、こんな馬鹿堅いたちですから、今すぐおせい様にきていただくということは、こころもちが許しませんけれど、ねえ、おせい様、今までどおりに――」
「いままでどおりではいやでございますよ。今まで以上でございますよ」
磯五は、ちょっと部屋のそとへ気をくばって、だれもいないことを確かめると、そっとおせい様の肩に手をまわした。おせい様は、小むすめのように身をよじって、その磯五の腕のなかへとけこんで来た。長いことそうしていた。おせい様は、歯をかみ合わせて、懸命に声を飲んでいたが、なみだが磯五の膝へしたたった。磯五は、何かほかのことを考えながら、顔を上げて、障子の桟を読んでいた。
久助が戸締まりを見て歩く音が、ふたりを離れさせた。磯五はその夜この拝領町屋の家に泊まった。
五
当分、いや、一生夫婦となれそうもない男に真実を示してこそ、それは、現代《いま》のことばでいえば、まず、ほんとの愛というものであろうというふうに、おせい様は考えたのだった。そう考えることによって、おせい様は、内心新しいよろこびを感じさえした。
どこまでもこの人に実を尽くして行きましょう。女が、心から男を思う途《みち》は、じぶんの望みを殺すよりほかない。それが何よりも尊いまことなのだ。恨みがましいことは一言も口に出しますまい。今夜からすこしでも変わったなどと思われないようにしましょう。この人のかなしみを自分も分け背負って、よし初めの望みどおり夫婦にはなれなくても、いっしょに、一番高い、一ばん清い恋の山路を踏み登りましょう。
それにしても、わたしたちの邪魔をして、この人をこんなに苦しめている、その、まだ生きている女房という女は、何というひどい人であろう。一眼顔を見てやりたいものだ――と、眠られないので、床のうえに起き上がったおせい様が、そばにぐっすり眠《ね》ている磯五の顔を見ながら、こんなことを考えているときに、戸じまりを見おわった久助である。
もう家じゅう真っ暗になっていた。
手ぬぐいで頬かむりをした久助が、あし音を忍ばせてそっと裏口から家を出て行った。暗い夜空の下を、風が渡って、樹の枝がしきりに騒いでいた。枝が揺れさわぐと、やみのなかに黒い影がおどって、冷や飯|草履《ぞうり》をとおして、地面の冷えが、はい上がってきた。
久助は、もう一度、手ぬぐいですっぽり顔をつつみ直して、音のしないように、おせい様の家にそって拝領町屋の通りへ出た。そこにも風があって、白い紙屑《かみくず》が生き物のように街上《まち》を走っていた。
下谷《したや》の大通りのほうへ小半丁も下ると、軒なみに暗い家がならんでいるなかに、一軒灯のかんかんついている家があった。通夜でもやっているらしく、読経の声が、もれてきていた。その前の往来にだけ、白い布を敷いたように、巾《はば》のひろい光線が倒れていた。
久助がそこまで来て、その光のなかにはいって、合図のようにそこらを見まわすと、家の横の路地から、やはり手ぬぐいを吹き流しにかぶった女のすがたがあらわれて久助のそばへ寄って来た。
ふたりはならんで、黙って歩きだしていた。
父と娘《こ》
一
その灯のついている家のかげから出て来て、久助とならんで歩き出したのは、さっき拝領町屋の雑賀屋の寮から一足先に帰ったはずのお駒ちゃんであった。お駒ちゃんは手ぬぐいを吹き流しにかぶって、褄《つま》をとるようにしていた。派手な着物の柄が、やみの底にふんわり浮いて見えていた。
しばらく黙って歩いた。そこは大門町《だいもんちょう》の店屋つづきで、ごみごみした場所であった。ちょっと明るいところへ出ると、二人は、横顔をぬすみ見るつもりで、視線が合った。鋭くささやくようにいったのは、お駒ちゃんであった。
「ほんとに、あきれたもんだよ。お父《とっ》つぁん。お前、あんなところで何をしているんだい」
すると、板場の久助が、着物の上からお駒ちゃんの肘をとらえて、
「何だ、お父つぁんだと? なるほど、お父つぁんには相違ねえが、おれは、おめえのような女に、お父つぁんと呼ばれたくねえのだ。人聞きが悪い」
このお駒ちゃんと板さんの久助は、父娘《おやこ》なのだ。その父親《てておや》の久助に、こうこっぴどくいわれても、お駒ちゃんは相変わらずしゃあしゃあとしたもので、
「おそかったねえ。戸締まりでも見ていたのかい」
「そうよ。戸締まりをしていたのだ」久助は、娘に対して快《こころよ》くないようすである。「往来《みち》の真ん中で立ち話もできめえ。どこか行くところねえのか」
「そうさねえ。どこへ行ったらいいだろうねえ。お父つぁんは、すぐ帰らなくてもいいの?」
「そう急ぐこともねえのだ。みんなもう寝ているだろう。裏の木戸をあけて来たから、いつでもへえれる。お駒、今夜はびっくりさせたぜ」
「あたいこそびっくりしたよ。久助という新しい板さんが来たということは聞いていたけれど、まさかお父つぁんとは思わなかったよ。歩きながら話そうじゃないか。まだそんなにおそくもないようだねえ」
父と娘は、また黙って四、五間歩いて行った。近くに銭湯があるとみえて、しまい湯を落とした湯気が、溝《みぞ》から白く立ちのぼってきた。それには、人間の膚のにおいとおしろいのにおいがまざって、むっと生あったかかった。
お駒ちゃんは、宵の口におせい様に招《よ》ばれて来たときの服装のままだった。気分が悪いから先に式部小路へ帰るといって、駕籠で出たのだったが、どこかそこらで駕籠をおろし
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