てん》を着た、六十近い白髪《しらが》の老爺《ろうや》が腰をかがめて、料理の盆を持ってはいって来た。
それが、いま話に出た久助であった。
宵宴《しょうえん》
一
自分で料理をしてじぶんで給仕までしないと気がすまないという変わり者の久助だ。その久助が、料理の皿《さら》をいろいろと盆にのせて、部屋へはいって来たので、三人は、そっちを見た。
おせい様は、その腕ききの奉公人をあたらしく得たことを誇るように、磯五の顔を見上げて笑った。その笑いは、見ようによっては悲しいようなまたうれしいようなわらいであった。
それは、磯五に対するおせい様の感情を、よく現わしていた。これからこの人と、こうして毎日三度の食膳に向かうようになるのだと思うと、何かよりかかるものができたようで、このごろのおせい様は、行く手の地平線がぽうっとあかるんできているような気がしていた。
このおせい様は、男の腕にやんわり寄りかかって世の中を送るようにできている女なのだ。が、それも、軽くやさしく寄りかかるのだから、男のほうでは、すこしも重荷にならないというタイプである。おせい様は、そういった女だった。
しかし、それは危険なことだ。おせい様のような女は間違いの因《もと》になりやすいのだ。ことに、おせい様の見ている前途の光は、明け方の色ではない。薄暮の浮光《ふこう》である。磯五に向けるおせい様の微笑が、かなしいものに見えるのはそれだった。
ふと気がつくと、ならんで座についているお駒ちゃんが、急に蒼い顔をして落ちつかないようすなので、磯五がお駒ちゃんにきいた。そのあいだ久助は、物慣れた手つきで、三人の膳部へそれぞれ皿を配っていた。
「どうかしたのかい。顔いろがよくないようだが――」
「何ともありません」お駒ちゃんの声は、かすれていた。
「ただすこし寒気がするだけでございます」
「どうぞお一つ」
と、いって、磯五の酒杯《さかずき》に酒を満たそうとしていたおせい様が、この問答にびっくりして、心配そうな表情《かお》をお駒ちゃんへ向けた。
「わたしもさっきからそう思っていたのですが、ほんとにお駒さんは、浮かないようすですねえ。寒気がするのは、いけませんですよ。風邪《かぜ》のはじめでございます。こんな寒い晩にお呼びして、お駒ちゃんに病気になられたりしては、わたくしが困りますでございますよねえ」
じっさい、浅い春らしい底冷えのする夜であった。おせい様がそういっているときも、そのおせい様のことばに合わせるように、さびしい風が、大きな音をたてて家をゆすぶって過ぎた。おせい様が、つづけた。
「あついお酒を召し上がると、あったかくなりますでございますよ」そして、部屋を出て行こうとしていた久助に、命じた。「特別に熱くして、一本持って来てくださいよ。大いそぎですよ」
まもなく久助は、命じられた熱燗《あつかん》の徳利を持って来て、お駒の前へ置いた。前へ置いたきり、久助はあきれたように、黙ってお駒ちゃんの顔をみつめているので、お駒ちゃんは困ったようにうつ向いてしまった。おせい様が、久助をたしなめた。
「お酒を持って来たら、お酌をしてさしあげるものですよ」
久助は不承無承に、徳利を持ってお駒ちゃんのさかづきにつごうとした。なかの酒が煮えくり返っているほど徳利があつくなっていたので、久助はあわてて下へおろして、耳へ手をやった。それから、ふところから手ぬぐいの畳んだのを出して、それを当てて徳利を持った。酒をつぎながらも、久助は眼を凝らして、お駒ちゃんの顔を見ていた。
お駒ちゃんは、つがれた酒を、ほとんど一息にのみほした。さかづきを置く手が、ぶるぶるふるえていた。それきり下を向いて黙りこんでしまった。
久助は、老爺《おやじ》ではあったが、そういう宴席のとりなしなどは、巧みなものであった。口数をきかずに用が足りて、万事によく気が届くのであった。久助の下に、ふたりの小婢《こおんな》が出て来て、酒と料理をはこんだ。そのおんなたちも、おせい様がやかましいので、立ち居ふるまいもしとやかであった。
磯五の酌はおせい様が引きうけて、器用に銚子《ちょうし》を持っていた。料理は、素人《しろうと》の家のものとは思えないほど、立派なものであった。お駒ちゃんが気分がわるいことで宴はちょっと腰を折られたが、久助とおんなたちは、何ごともなかったようにそこらを斡旋《あっせん》した。磯五とおせい様も、すぐのんびりした気もちになって箸と酒杯《さかずき》をかわるがわる動かしていた。
世間ばなしがはじまって、この小宴は楽しいものになりそうだった。
二
久助のやり方がすべて気がきいているので、おせい様は磯五を見て、何度も満足そうにほほえんだ。それは、こういう拾いものをしたという、主人役としての小さな自慢であった。磯五もそれにほほえみ返していた。
お駒ちゃんだけが無言をつづけていた。いったいお駒ちゃんは、磯五とおせい様がいるところでは、いつもあんまり口をきかないのだ。つんとして黙っているか、しょんぼりほかのことを考えてるのだ。おせい様のようないい生活を知っている人のまえへ出ると、お駒ちゃんはひけ目を感じて、ただぼろ[#「ぼろ」に傍点]を出さないように気をつけるだけが精いっぱいなのである。それが、ときによって、お駒ちゃんをいじらしく見せていた。
が今夜はそれとも違う。お駒ちゃんはやっぱり気持ちの悪そうな顔をして、黙りこんでいるのだ。
へんに思って、それとなく磯五が注意していると、お駒ちゃんはときどき眼を上げて久助を見るのだが、その視線が異様なのである。久助が銚子を持ってお駒ちゃんの前へ出て、
「一つお重ねなさいまし」
というと、お駒ちゃんは妙にびっくりして、恐ろしいような、苦いような顔つきをした。よっぽどどうかしている。つれて来なければよかったと磯五は思った。
膳が引かれると、おせい様とお駒ちゃんは顔を直しにほかの部屋へ出ていった。磯五はやかましいことをいって特別に入れさせているおせい様の煙草《たばこ》から、一服借りて、ゆたかなけむりを吐いていた。その、色のいい気体の行方をぼんやり眼で追っていた。煙は、光線《ひかり》の届いているところでは紫に見えるし、天井へ近づくと白く見える。
磯五はそれをひどく不思議なことのように思って、吹いてはながめ、吹いてはながめ、同じことをくり返していた。すこし酔っていた。
久助がはいって来て、残りの物を持ってさがって行こうとした。磯五が呼びとめた。
「おとっつぁんはいい腕だね。名は何というのかね」
「久助と申します」
「お、そうそう。久助、久助。そこで久助、おせい様から話してあるだろうと思うが、おれはおせい様と近いうちにいっしょになることになっている。まあ、主人同様にしてもらおう」
鷹揚《おうよう》にそって、磯五は久助を見た。おせい様の家のものなら、猫とでも仲よくしておいていいのだ。ことにこの久助というおやじは、見たところ一癖ありそうなやつだから、こうして探りを入れて、味方にしておく必要があると思った。はじめから主人同様といい渡しておけば、どんな勝手なことでもできて、都合がいいのだ。久助は、そういう磯五に頭を下げて、ともかく恐れ入ったようすだ。
「はい。伺っております。わっしこそ、よろしくお願い申してえのです」
久助は、どこから見ても、料理人《いたば》の久助らしい人物なので、磯五は安心をした。かなりの年齢《とし》だが、がっしりしたからだつきで、江戸でよく見る、そういう職人らしい粋なおやじである。きれいに顔をそって、銀いろの髪を小さく結っている。
ちらと磯五を見た久助の眼に、何でえ、しゃらくせえ、といいたげな気持ちが走り過ぎたが、磯五は、すっかりいい気にたばこをふかしていて、気がつかなかった。ただ、おせい様は、日々の料理がやかましいので、本職の板場を入れたのだろうが、この久助という老人には、そういう職人にありがちな、庖丁《ほうちょう》一本で渡りあるいて来たといったところも見えないと思って、感心していた。
これなら、きっと長く勤まるだろう。いよいよ抱き込んでおかなければならないと思って、磯五は、お世辞をつかった。
「うまく食わせるじゃないか。見上げた腕前だぜ。前はどこにいたんだ」
「どこといって、べつに――以前は石町《こくちょう》のほうにいたこともありますが」
「石町の大|提燈《ちょうちん》かい」
「へえ」
「あすこならたいしたもんだ。こんな素人家へなんぞ来るのはもったいないぜ」
「あすこに十二年おりやした」
その石町の大提燈というのは、そのころ石町に、檐《のき》に大提燈をつるした、名代のうまいもの屋があった。その家のことだった。
「そうかい。どうしてやめたのかい」
「代が変わって、そりが合わねえから、面白くねえので思い切って引きやした。それから、ふか川のほうに、自前で店をやってみましたが、この年齢《とし》じゃ、若えもんのあいだにまじって、河岸《かし》の買い出しをするのも、骨でがす。そのうちに、こちら様で板場を探しているてえことを聞き込みましたので、ここから葬式を出していただくつもりでまいりました」
「そうかい。そりゃあまあ、いいことをしたよ。おめえなんざあ年のわりにぴんしゃんしてるけれど、これで、荒い仕事をするよりは、ここらへ住み込んで、爺《じい》や爺やと気に入られて日を送ったほうが上分別よ。
おせい様は、奉公人の出し入れがきらいで、長くいる者は眼をかけて、そりゃあ可愛がるのだ。おれもそうだ。お前もこれで、身のふり方がきまったというものだろう。ゆくところへゆくように、ちゃんと見届けてやるから、おめえも、ここで眼をつぶる気でな、しっかりやんな」
「ありがとうごぜえます」
「まあ、早く片づけて、ゆっくり休むがいいのさ」
磯五は、すっかりあるじ顔で、べらべらしゃべりつづけた。
三
久助がおじぎをして部屋を出て行くと磯五も、たち上がった。彼は、上きげんであった。いよいよこの家《や》のすべてが、自分のものになったような気がして、あらためて、そこらを見まわした。
磯五は、家事のこまかいことにかけては、女のような才能があるのだった。大きな才のない者には、こういう小さな才があるものだ。磯五は、その代表的な人物だ。女以上に、あれこれと日常の末に気がつくたちだった。すぐに、この家もいいが、あそこはああしよう、これはこうしようと考えながら、二人の女たちを探して、廊下を歩いて行った。
不浄場に近いところに、小さな隠れ座敷のようなところがあった。そこは、女の客などが、ちょっと身じまいを直すための場所であった。くらい行燈がともっていて、そのかげに、おせい様とお駒ちゃんが、ぴったり寄りそってすわっていた。お駒ちゃんは、じっと眼をすえて、おせい様が何かいうのを、きいているところであった。
磯五はそこへふところ手をして、はいって行った。おせい様は、待っていたような、よろこばしそうな顔で磯五を迎えた。
「出て行ったきり、いつまでもお帰りがないから、どうしたかと思って、さがしに来たのですよ」磯五はお駒ちゃんを見て、いった。「気分は直ったかい。気分が直ったら、食べ立ちのようだが、そろそろおいとましようじゃないか」
「あなたは、まだいいじゃありませんか。わたしはいまお駒さんに、わたしに遠慮せずに早く帰ってお寝《やす》みになるように説いていたところでございますよ」
「いいんですよ。もういいんですよ」お駒ちゃんは、そうあわて気味に口をはさんだ。幾分うるさそうな口調だった。
「ほっといてくださいよ」
お駒ちゃんは、ぞんざいなことばでなら、かなり雄弁家なのだ。が、すこしあらたまった口になると、容易に舌が動かないのだ。
おせい様は、今のように、お駒ちゃんに下品なところが見えると、兄の磯五がこの人を江戸に残して旅に出て、そのあとで下女奉公になぞ住み込んで歩いているうちに、こんなふうになったのであろうと思って、いまさらのように、兄の磯五をも妹
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