主計は、お高が、あわてて話題をかえたことに、気がつかなかった。龍造寺主計は、若松屋惣七とお高を張りあおうと思っているわけではなかった。ただ正直な女が、正直な問いに、正直に答えられない理由はないと信じているのだった。
 龍造寺主計は、お高の答えをそのままとって、お高は自分を好きなのと同じ程度に、若松屋惣七をも好きなのに過ぎない。じぶんと若松屋惣七は、お高に対して、高低のない立場にあるのだと解釈した。そして、何かしら、安心のようなものを感じた。それが龍造寺主計に、あたらしい希望を与えた。
 正直な心は、他の正直なこころによって、いつかは、かならずひとつに結びつくものであると、運命的に楽観していたかった。そんなふうに考えるのが、その広い正直な心をもつ龍造寺主計だ。どんなことがあっても、早晩お高を妻に得ようと、倍の決心を固めて、元気よく庭のむこうの離室《はなれ》へかえって行った。あくる朝は早く東海道にたつのだ。
 もし、このときお高が、ほんとのことを打ちあけさえすれば、その後、幾多の悲痛と苦悩は、この三人のうえにこなかったかもしれない。が、お高にその強さがなかったばかりに、この夕方からの運命は、三人を鼎《かなえ》の座にすえることになった。二人の男と、ひとりの女と、恋はこの時代から、ときとして三角だったのだ。

      三

 磯屋の奥は、土蔵づくりになっていて、うす暗かった。店と蔵をつなぐ渡り廊下まで来ると、磯五は、立ちどまった。客に応対する番頭や手代の声と、品物をかつぎ出す小僧たちの物音が、さわがしく聞こえてきていた。そこの廊下の下は、中庭になっていて、苔《こけ》の青い石などがあった。年じゅう陽があたらないので、岩清水のようなうそ寒いものが、いつもその狭庭《さにわ》に立ち迷っていた。
 磯五は、何かしらつめたさが背すじを走るような気がして、身ぶるいをした。そのまま、庭下駄をはいて、蔵について裏へまわろうとした。右手にお母屋《もや》の一部が腕のように伸びていて、別棟《べつむね》のように見えていた。そこは、店で売った品を、注文に応じて仕立てて届ける、お針たちの詰めているところであった。
 お針には、近所の娘や、家持ち番頭の女房などが通ってきていた。大家《たいけ》の婚礼衣裳などを引き請けて、いそぎの品がかさなったときは、夜っぴてここの窓に黄色い灯がにじんで、針と口をいっしょにうごかす女たちのにぎやかな笑い声が、朝までつづくこともめずらしくなかった。
 いまも四、五人の若い女が、座敷に仕立てものをひろげて裁ったり縫ったりしているのが、まえを通りかかった磯五に見えた。女たちは、主人を見かけると、いっせいに仕事をよして、手を突いて頭をさげた。磯五は、そのなかに、お針がしらのお市《いち》がいるのを知っていた。
 お市は、町内の鳶《とび》の者の女房で、茶屋女あがりということであったが、それにしては、針が持てるのであった。磯屋のお針頭として、どんな品物を出されても、立派にこなしてゆけるのであった。お市は、ちょいと渋皮のむけた、せいの高い、しじゅうにこにことほほえんでいる女であった。態度《ものごし》にどこかなまめいたところがあって、芸事の師匠といったような女柄であった。
 磯五は、このお市が煙《けむ》たくてしようがなかった。それは、いつかお市が、このお針部屋にひとりでいるとき、磯五が意地のきたないことをしようとして、上手《うわて》に起《た》たれてしまったからばかりではなかった。お駒ちゃんを妹としておもて看板に上げていることを、このお市だけは、からくりの底まで見すかしているように、磯五には思えた。
 それも、そういうことを口に出したのでも、けぶりに見せたのでもないのだが、どうも磯五は、お市が邪魔になってきていた。このあいだからひまを出そうと考えていた。事実きょうは、お市の代わりにお針頭になる、おしんという女が、人の仲介《なかだち》で目見得にくることになっている。
 磯五は、それを思い出して、悶着《もんちゃく》のないようにこの出し入れをしなければならないと思った。新しいおしんという女は、手腕《うで》も達者だし、すこしは人も使えて、人間もいいというのである。そのほうを確かめてから、機をみて、お市に暇をくれることにしよう。それまでは、何もいわないほうがいい。町内のものではあるし、それに、いつかのことで弱点を握られていもする。
 そうでなくても、やむを得ない場合のほか、女性を敵にまわさないように気をつけるのが、磯屋五兵衛のモットウであった。ともかく、こんにちの彼をして、この大店のあるじたらしめているゆえんのものは、この生活信条に負うところ少なくないのだった。
 磯五は、だまって、そのお針部屋の前を通り過ぎて、奥庭から居間へ上がろうとしていた。
 樹のかげに、女の着物がうごいたので、磯五は、足をとめた。それは、多勢いる小間使いのひとりで、見なれない若い女であった。若い女も、そうして近いところで磯五を見るのは初めてであったが、これが旦那様であろうと直感して、固くなって、そこへ出てきた。耳たぶを真っ赤にしている、うつくしい娘であった。磯五は、その顔をのぞくようにして、荒いことばを使った。
「こんなところで何をしているのだ」
「はい」娘は、おどおどした。「笹《ささ》をとってくるようにとお咲さんにいいつけられまして――」
「笹を? 笹は何にするのだ」
「はい。なにやらお煮物の下に敷くのだそうでございます」
「そんなら、笹は裏にある。こんなところへ来てはいけない。ここは、おもての者以外きてはならぬのだ」
「はい。昨日上がりましたばかりで、まだちっとも勝手が知れないものでございますから――」
「よろしい。行きなさい」
 娘がおじぎをして去りかけると、ぱっちりした磯五の眼に、露骨な興味のいろがうかんだ。その視線は、逃げるように行く娘の足どりにからみついた。
「これこれ、お前は何というのかね」
 庭木のむこうから、娘の白い顔が答えた。
「はい。美代《みよ》と申します」
 磯五は、うなずいて歩き出した。いま、樹のあいだに消えて行ったお美代のすがたが、網膜の底にのこっていた。お美代は、やせて、肩などまだ肉の乗らない、皮膚のいろのわるい娘むすめした女であった。しかしお美代の顔だちは、めずらしくととのったものであった。
 磯五は、女の美醜を見さだめる点では、天才であった。石や瓦《かわら》のなかから、つねに玉を発見するのであった。あのお美代は、化粧と着物によっては、立派に見られるものになると磯五は思った。何かの役に立つであろうから、そっと眼をつけていようと思った。

      四

 磯五が居間へはいって行くと、江戸紫というのに古代むらさきの染めを注文したお駒ちゃんが、京から届いてきたその布《きれ》をぼんやりながめて、困ったようにすわっていたので、お駒ちゃんが磯五の妹であるというでたらめは、おせい様ばかりでなく、いまでは店の者のあいだにも、いいふらされていた。
 磯五が上方から帰ってこの磯五の店を買いとったとき、江戸に残しておいた妹がおちぶれているのを見つけて、助け出して店へ入れたというのである。そして、それ以来、店のことはいっさい妹のお駒ちゃんにまかせてある、というのだ。
 みな信じて、誰も疑うものはないと磯五は思っていた。ただあのお針頭のお市だけは、にこにこしながら、何もかも知っているような気がするのだが、それも、そんな気がするだけで、確かにお市が見やぶっているとは、磯五にもいえないのだ。
 しかし、妹を選ぶにあたって、お駒ちゃんを採用したことは間違いであったことは、磯五も気がついていた。
 おせい様は、何と思おうと、磯五の口ひとつでどうともなるのだから、そのほうはいいとして、こんなあばずれを妹だなどといって背負いこむようになったのは、第一、あの金剛寺坂の高音がいうことをきかないからだ。高音さえ、こっちの頼みどおりに、妹役を引きうけて店へ来てくれれば、何もすき好んで、この箸にも棒にもかからないお駒などを家《うち》へひき入れることはなかったのである。そう思うと磯五は、高音のお高が憎らしかった。
 いかにいそいでいたとはいえ、どうしてあんなお駒などを妹に仕立てる気になったのであろう。お駒ちゃんは柄や色あいの考えなぞすこしもないのだ。まるっきり商売のあたまがないのだ。お駒ちゃんの持っているものは、悪口の舌だけで、それで家じゅうのものを追い使っている。見たところも、美しいはうつくしいが、何といっても下品で、とても山の手のいい客とは応対さえさせられないのである。
 そんなことを考えると、磯五は自分を蹴とばしたくなった。が、磯五は、あくまで磯屋の黒幕になっていて、外部《そと》の人と接触したくなかったので、どうしても、お駒ちゃんのような妹役がひとり必要だったのである。それは、おせい様をだますためばかりではなく、店の奉公人に対しても、そのほうがにらみがきくと、磯五は考えていた。
 染め物の色のことから、お駒ちゃんとあらそいになったのだった。磯五は、お駒ちゃんの膝からたたみのうえにひろがっている反物を、つま先で蹴りけり、いった。
「気をつけなくちゃあいけねえじゃねえか。妹とか何とかいわれて、図に乗るばかりが能じゃあねえんだ」
 たちまち、お駒ちゃんの顔に、朱のいろがのぼった。
「何をいってるんだい。気をつけろだって。お前さんこそ、気をつけたがいいや。何だい、面白くもない。妹でもないものを妹だなんてつれまわして、あの四十島田をたらしこんでさ、いっしょになる気もないくせに、いっしょになるなるってお金をしぼっているのは、どこの誰だったっけね。あたしがこんなことをする気になったのは、お前さんとの約束があったからだよ」
 お駒ちゃんの声は、だんだん大きくなるのだ。
「さあ、あの約束はどうしたんだい。それを聞こうじゃないか」
 磯五は、美しい眉をしかめて、お駒ちゃんをみつめた。
「そんなことをここでいい出すものじゃない」
「いい出すのじゃないって」お駒ちゃんは、泣き声になってきた。「あたしが黙っていれば、お前さんはいつまでたっても知らん顔の半兵衛じゃないか。いやだよ。誰がそうそうおあずけを食わされているもんか」
 そとに気をかねて、障子のほうを見た磯五の顔には、その美貌《びぼう》のかわりに、みにくい表情があった。それは、異様にかがやく眼と、剛情に突きでた顎だけであった。
「忘れちゃいねえ。が、ここでそんなことをいわなくてもいいだろうというんだよ。おれもいそがしいからだだ。あんまりせっついてくれるな」
「おや、お前のような人でも、忙しいということがあるのかねえ。はい。さぞかしお忙しゅうございましょうとも。笑わせるよ。おおかた、後家さんにうまいこといってお金をしぼるのに忙しいんだろうよ」

      五

 手をふりあげた磯五だ。
「何をいやあがる! さ、もう勘弁ならねえから出てうせろ。出て行け、この宿なしの牝猫《めすねこ》――」
 お駒ちゃんも、すっかり地のお駒ちゃんにかえっていた。
「出てゆけだって。これあ面白い。出て行きましょうとも。ここを出たら、その足で、あたしゃ拝領町屋へ駈けこんで、あのおせい様とかいう色きちがいに、何からなにまでほんとのことをぶちまけてやるんだ。あたしがお前さんの妹かどうか、なんにも知らないものに、こうやっていいお着々《べべ》をきせて、何だって遊ばせておくのか、みんなあなた様をおだまし申そう磯屋のこんたんでございます、とね。考えてごらんよ。どんなことになるか。
 何だって? 宿なしのめす猫? へん、お前さんは何だい、立派な大あきんどでいらっしゃいますよ。日本橋の老舗磯屋の旦那でいらっしゃいますよ。うそつき! 詐欺師! 女たらし! ぶつならお打ち。強い人に弱い者は、弱いものにかぎって、強いんだってね」
 お駒ちゃんが、そんなややこしいたんか[#「たんか」に傍点]を切って、磯五のほうへからだをにじり寄らせてくるものだから、磯五が困って、ふりかぶった拳《こぶし》を持ちあつ
前へ 次へ
全56ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング