もしねえものを、しこたま買いこみやがって、どうする気だ」
お駒ちゃんも、負けていなかった。
「そういえば、いま定《さだ》さんが来て、注文したのは、この色じゃあないなんていっていたけれど、へんだねえ。お前さんにしろ、定公にしろ、この店は、唐変木《とうへんぼく》の寄り合いさ。いいかげんいやになっちまうよ」
「てめえの馬鹿にも、あきれたもんだ。それほどの阿呆《あほう》ではないと思って、一度大口の染めの注文をあつかわせてみたおれが、わるかった」
「それごらん。やっぱりお前さんが悪いんじゃないか」
「何てことをいやあがる。いい気なもんだなあ」
「だって、そうじゃないか。お前さんは、江戸むらさきといやしなかったかい」
「そうとも。江戸むらさきと注文したんだが、これが江戸紫なもんか」
「はばかりさま。立派な江戸むらさきですよ」
「ちょっ! 色の見さかい一つつきゃあしねえ」
「ふん、おあいにくさまですね。そんな色の見さかい一つつかないようなものを、何だってこの商売に引っぱりこんだんだろうねえ。あたしは、一度だって、じぶんのほうから来たいなんていったおぼえは、ありゃあしないよ。おまけに、そんな大悪の妹だなんて触れ込みで、人聞きがわるいやね。あたしゃ、お前さんの出よう一つで、いつだって願い下げにするんだから」
お駒ちゃんは、縄《なわ》のしっぽに火がついたように、めらめらめらとしゃべり立てて行くのだ。
「何だい、何といって頼んだか、まさかお忘れじゃあるまいね。都合のいいときばっかり頭を下げれば、それでいいというものじゃないよ」
口ではぽんぽんいうが、磯五を見上げるお駒ちゃんの眼は、大きくうるんでいるのだ。相手の顔に、ちょっとでも微笑の影がさし次第、すぐにも笑いかけて、この場をおさめようというところが、見えているのだ。
磯五は、そういうお駒ちゃんの眼を無視して、ますます威丈高《いたけだか》になっていった。
「第一、おいらあその、おめえの衣裳《いしょう》からして気にくわねえ。それあ、まるで、何のことはない。茶屋女か河原もののこしれえじゃねえか」
「おや、これがかい」
お駒ちゃんは、あきれたように、じぶんの袖口をつん[#「つん」に傍点]と引っぱって、左右の腕から、胸の前を、見まわし、見おろした。
「そうよ。もっと堅気につくってもらおうじゃないか。これは、れっきとした老舗《しにせ》なんだぜ」
「おや、そうかい。これが、れっきとした老舗なのかい。それは、それは、すまなかったねえ」
お駒ちゃんが、叫ぶように、そうゆがんだ声をあげたとき、するするとふすまがあいて、きょうはじめて住み込みに来た、お針|頭《がしら》のおしんという、三十二、三のちょいときれいな女が、はいって来た。
磯五のところへ、挨拶に顔を出したのだ。
「あら、まあ、旦那――」
おしんの口から、おどろきの声が、逃げた。
鼎《かなえ》の座
一
沈黙が、お高をとらえた。湯のような熱いものが、なみなみと彼女の胸にあふれた。それは、驚愕の感情だ。恐怖でさえあった。龍造寺主計がじぶんを恋するなどと、夢にも思わなかったことだ。同時にそうして無言でいるお高のこころに、やわらかい、あわれむようなおかしみが、一筋めらめらと燃え上がってきた。お高は、相手があしたたつといういま、それをいいにぶらりと自分の居間へやって来たのだと思うと、べつに悪い意味からではなく、ただちょっとふき出したくなった。
二つの考えが、その瞬間のお高を走り過ぎた。一つは、この龍造寺主計という人は、諸国を流浪して人にもまれているようでも、案外すれていないということであった。
もう一つの印象は、この人はいやしい生まれではなく、ことにその母親は、単純な美しいたましいの所有主であったろうということだ。じっさいお高は、龍造寺主計の生母を想像してみた。それほど、不思議なくらい天真|爛漫《らんまん》たるものが、その恋を打ちあけた龍造寺主計のことばからにおって、お高をつつんだのだ。
お高が困ってもじもじしても、龍造寺主計は平気だ。他人のことのように、つづけた。「聞きなさい。発足の前の晩にこんなことをいうのは、急に思いついたようで、おかしな男だと思わるるかもしれぬ。しかし決して思いつきではない。ただ、掛川へ行くまえに、あんたの心を聞いておきたいだけじゃ」
決して思いつきでないことはよくわかっております。お高はそういおうとしたが、龍造寺主計が続けて口を開きかけたので、ことばを控えた。
「江戸へ参って、当家へ来たとき、すぐにいえばよかったのだ。あんたを見るとすぐ、わしはあんたが好きになったのだから――といってあすの朝までに型ばかりでも婚礼の式をなどというのではない。ただ承知さえしてくれれば、わしのほうから若松屋どのに話をして、いずれその時節を待つつもりでおる。
とにかくわしは、こうしてあんたを奉公させておくに忍びんのじゃ。女子《おなご》というものは、働くために生まれたのではない――が、そう自分の思うことばかりいうても、しようがあるまい。どうです、あんたは、ちっとはわしがすきになれそうだかな」
お高は、適当のことばをさがすのに忙しかった。が、なかなかそれが発見されなかった。心が真ッ白になったような気もちだ。龍造寺主計のむきだしな口調には、何かしら力があるのだ、思い切って、声を押し出した。
「身にあまるおことばでございますけれど、どうぞ龍造寺さま、どうぞ、そのようなことはおっしゃらずにくださいまし」
「はて、すると、このわしを好きにはなれぬといわるるのかな」
「いいえ。けっしてそういうわけではございませぬ。失礼でございますが、わたくしは、龍造寺さまが好きでございます。大好きでございます。正直に申しますと、今まで、あなた様のような男らしい方にお眼にかかったことはないような気がいたしますのでございます。でも、夫婦になるなどと、そんな――」
「そんな気はないといわるるか」
「気があるないよりも、できませんのでございます」
龍造寺主計は、眼をみはった。
「何か、仔細《しさい》があるのかな」
「なにも仔細はございません」きっぱりいって、お高は、蒼い顔を上げた。「ただ、そのようなことは、考えてみたこともございませんもの」
「考えてみたことがなければいま考えてもらいたい。わたしは、返事があるまで、ここで待とう」
「まあ」お高は笑い出した。「そう右から左に、ごむりでございます」
「むりでもよい。一応よく思案なさい。わしは、だしぬけにいい出してあんたを驚かしたが、あんたは、わしという人間をまだよく知らんのだ。ゆっくりと勘考するがよい。はいという返辞でなくとも、先の望みさえ見せてくれれば、わしは、よろこび勇んで掛川の旅に出られる」
お高は、はげしく首を振った。
「いいえ、龍造寺さま。あなたの奥様にさせていただくなどと、高は、身分というものを心得ておりますでございます」
「これは異なことを。忘れてはいかん。わしは、もう武士ではないのだ。このとおり、町人である」
「それでも――それでは、はっきりお断わりさせていただきます。龍造寺さま、そればっかりはお許しくださいまし」
お高の心身を、にわかの悲しみがこめた。口や態度では示さなかったが、この龍造寺主計は、お高を愛すればこそ、若松屋惣七のために、ひいてはお高のために、ああして救いの手をさし伸べてくれたのである。また、お高というものが存在するがゆえに、こうさらりと両刀すてて、町人も町人、宿場の旅籠の亭主とまでなりさがって掛川くんだりへ行こうとしているのだ。
お高はじぶんの知らないうちに、大きな借金を背負わされているような気がした。しかも、この借りだけは、一生かかっても弁済することはできないのだ。磯屋五兵衛の妻となっているために縛られているからばかりではない。お高のこころとからだは、すでにそれを独占する所有主があるのだ。
二
「とにかく、考えておいてもらおう。掛川へ行っても、今度はそう長くはおらんつもりだ。どのみち、ひとまず江戸へ帰ってくる。そのとき返事を聞きましょう。いや、藪から棒にすまぬことをした。江戸では当節かような談判ははやらぬかもしれぬが、わしは、いままで一介の旅浪人であった。これから諸人を見習うて、もそっとおだやかに切り出すといたそう」
龍造寺主計はそういって、濶達《かったつ》に哄笑《こうしょう》した。龍造寺主計の熱心な顔、黒味のふかい正直な瞳《め》が、お高の胸を苦痛にあえがせた。
このお方は、何もご存じないのだ。そして、自分はいま、なにごともいうことはできない。いったいどうして、このようなことになったのであろう? できない相談に望みをかけていられるのは、あまりに残酷である。
この立派な男性に、単なる厚意以上の何ものもあたえられないとは、そうでなくても、このごろのじぶんは、つづく悩みに打ちのめされているのに、と、お高が、龍造寺主計のために襦袢を縫う針の手をとめて、考えこんでいると、龍造寺主計の声は、なにごともなかったかのごとく、子供のように他意ないのだ。
「わしといっしょになると、旅に出なければならんと思うて、それで二の足を踏むのかもしれんが、さようなことはないぞ。旅は、どこへ参っても同じことじゃ。どこまで行ってもきりがないのだ。そのどこまで行ったとておなじことであるという一事を知るために、旅をするようなものである。
人間は、この一生の旅で、たくさんだ。何も、砂ほこりにまみれ、暑さ寒さとたたかい、風にさらされて歩み、星をながめて眠ることはないのじゃ。さながらおのが骨から肉を引き離し、われとわが命をけずるような苦行であるが、さて、その苦行を何年つづけても、どうなるものでもない。こころのやわらむということは、ないのである。と、今度こそは、龍造寺主計もさとりましたよ。町人として、掛川の仕事におちつくつもりでおる。すぐにとはいわぬ。このつぎ出府するまでに、もう一度考え直してはくれぬかな」
お高は、黙っていた。お高は、恩があるだけに、この無邪気な人の心臓を傷つけたくなかった。が、それと同時に、何か新しい借りに落ちこんだような気もちは、いっそうひろがって行くのだ。お高はいつも誰かしら男の人に、何らかの形で借りがあるように運命づけられているように、じぶんを感じた。
お高の恋する若松屋惣七を助けた龍造寺主計が、いまお高を恋しているのだ。が、いかに思われても、この借りだけは、返すことができない。お高は、苦しくなった。お高は、泣き出したかった。
「いいえ、龍造寺さま。考え直せとおっしゃっても、考え直すことがないのでございます。とうていおことばにしたがうことはできませんのでございます。どうか悪くお思いくださいませんように」
龍造寺主計は、べつに怒ったふうもなく、いきなりたち上がった。
「さようか。ぜひもない。しからば、友として、長くつきあってもらいたいな」
「はい。それはもう、あらためて高からお願い申しあげますでございます」
龍造寺主計は、縁から庭へおりようとして、ふりかえった。
「ひとつ、ききたいことがある」
「はい。何でございます」
「あんたは、若松屋惣七どのを、思っておらるるのではないかな。若松屋惣七殿と、いっしょにならるる気ではないかな」
お高は、思い切って、はいさようでございます。事情があって、今のいまというわけには参りませぬが、いずれは晴れてそういうことにと旦那様がおっしゃっていてくださいます、と、口に出かかったが、龍造寺主計の真率《しんそつ》な視線を浴びると、つと舌がためらった。それにたとえ名だけにしろ、磯五という良人のある身が、そういうことをいっては悪いであろうと思い返された。
うち消すよりほかないのだ。
「旦那様となど、そういうおはなしはすこしもございません。ございましても、わたくしは、いやでございます」
「さようか」
「あの、もうじき縫い上がりますでございますが、のちほど、お部屋のほうへお届けいたさせますでございます」
龍造寺
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