、若松屋が一時浮かぶ。わしの身も、まず固まる。とならば、両得である。武士というものがいやになっておる点にかけては、わたしも、若松屋に負けぬつもりだ。
 しかし、その、きちがいになった東兵衛という男に、出した資金《もとで》をすっかり返してやって、そのうえ、具足屋の借財を一身に引きうけるとは、若松屋惣七という男は、涼しい気性の男だな。いささか涼しすぎると申してよいぞ。若松屋惣七ともあろう腕ききのしたことともおぼえぬが、まず、そうあってこそ、若松屋惣七の若松屋惣七たるゆえんであり、世の中も、面白いのであろうな」
 龍造寺主計は、あははと笑った。

      四

 龍造寺主計は、そのままずるずるべったりに、若松屋惣七方の客となって、四、五日を過ごしたが、毎日のように出歩いていて、お高とも、惣七とも、その後会って、くわしい話を聞くというのでも、するというのでもなかった。
 四、五日たって、ぶらりと、奥の惣七の居間へあらわれた。その龍造寺主計は、若松屋惣七のひそみにならって、一思いにさむらい稼業を廃業した龍造寺主計であった。あたまも、いつのまにか、町人ふうに結いなおしていた。着物も、どこでこしらえて来たのか、渋い縞《しま》ものに変わっていた。すっかり、ちょいと、工面のいい商家のあるじのいでたちなのだ。
 骨張ったからだにもやわらかみがついて見えた。こわいあばた面も、このあたらしい着つけにそんなに似つかわしくないこともないのだ。ひとかど商戦の古つわものらしく、かえって貫禄《かんろく》をそなえているのである。
 本人も、べつに思い切って変わったというところも見えないのだ。けろりとして、部屋へはいって来て、若松屋惣七のまえにすわった。板についていて、ちっともおかしくはない。龍造寺主計自身も、ただ、さばさばした気もちだけで、じぶんのそうした転身など、気にとめていないようすだ。
 若松屋惣七は、よく見えないから、早変わりをした相手に、おどろかされることもなかった。
 龍造寺主計は、だしぬけにいった。
「この二、三日、掛川宿の具足屋のことを、考えておった。いままであんたがおろした資本《もとで》の半金だけ、あらたにわたしに、出させてもらおう。どうです、ふたりでやってみようではないか」
 若松屋惣七は、眉ひとつ動かさなかった。
「龍造寺さまですかい。そんな金があるのですかい」
「やっと調達してまいった」
「それは、不思議なことですね。じつはきょうわたしは、この若松屋を売る手打ちをするつもりでおりましたよ。そのまぎわに、あなたという人が、金をもって助け船にあらわれるとは、まるで、作ったようなはなしでございますねえ」
「何でもいい。ぜひその具足屋へ、半口割りこませてもらいたいのだ。私は、田舎《いなか》が好きだ。掛川は、何度となく通っておるが、いいところです。ひとつ、出かけて行って、自分でやってみたいと思っておる」
 若松屋惣七は、まだ半信半疑のていだ。仮に、この龍造寺主計が、いまそれだけの現金を用意して来て、具足屋につぎ込もうとしているのは、たしかな事実であると知っても、若松屋惣七は、とび立つように礼などはいわなかったに相違ない。ふかく知らぬ人間に、また、深く識っている人間に対しても、決して飛び立つように礼などはいわぬ若松屋惣七なのだ。
 うれしそうな顔も、しなかった。が、それだけの金がはいれば、それを磯五にたたきつけてやって、おせい様のほうをきれいにすまして、具足屋のほうも、急場をしのぐことができるのである。
 若松屋惣七は、願ってもみたことのない転換が、紙一まいのところで降ってきたので、気をおちつけて、しっかり物ごとを見ようとして、内心努力していたのかもしれない。秋の小川のような、刻こく色のかわる影のふかいものが、そうそう[#「そうそう」に傍点]と音をたてて、仮面のような惣七の顔を流れた。
 龍造寺主計が、いった。
「承知なさったと、見た」
「具足屋も当分は苦しゅうございますぞ」
「苦しみましょう」
「今までの半金を出していただければ、こちらを済まして、なおあまりある。具足屋も、当座息がつけます」
「わたしは、さっそく掛川へ出向いてみたい」
「それはまた急なことで」
「おせい様と磯五は、いつ金をよこせといってきているのです」
「きょうあすにもという催促が、このところ、だいぶつづきました」
「早いほどよい。後刻、金をお渡し申そう」
 若松屋惣七は、ぷすりとして、はじめて礼らしいことを述べた。
「いろいろ御厄介になります」
「何の」
 ふたりは黙ったまま、ながいこと顔を合わせて、すわっていた。
 若松屋惣七と、龍造寺主計と、二人の友情はこのときから燃え上がったのだ。深海をも、影ふかい谷をも、ふたりで歩き貫《つらぬ》くことになった。ひとりのためには、そこに、死が待っていたのだ。女のまことが、赤く咲いてもいたのだ。
 おせい様の金のほうは、ひとまず片づいたのだろう。ひと月ほどして、東海道掛川宿の龍造寺主計から、急飛脚が、金剛寺坂の若松屋へ駈けこんだ。おおいに見込みがあると思うから、思いきり金を入れる、安心していいという文面だ。若松屋惣七は、もうすっかりそんな商人らしいことをいう龍造寺主計に、遠くから微笑を送った。

      五

 龍造寺主計が掛川へ発足する前の晩であった。お高は、若松屋の屋敷内の自分の部屋で、縫い物をしていた。何だか、妙にむしむしする日であった。それが、妙にむしむしする晩にかわろうとしていた。お高は縁の障子をあけ放して、そこからくる夕ぐれの光で、針をうごかしていた。金剛寺の鐘がかすかに空気をゆり動かして、きこえてきていた。金剛寺坂をさわいでゆく、子供たちの声もしていた。
 お高は、かるい頭痛をおぼえていた。からだじゅうの肉が、骨からばらばらに離れて、落ちていくような気もちであった。このごろの心労が、お高の顔に、大きく書かれてあった。うすれてゆく陽の色が、ちょっと室内を赤くしたり、また、たちまち暗くしたりした。
 おせい様の取り立てごとが一段落ついて、お高は、はじめてじぶんのことを考える余裕を持っていた。しかし、将来を思ってみても、こういう生活の連続のほか、何もないような気がした。すこしも、楽しいこころにはなり得なかった。
 人がはいって来たので、そっちのほうへ向けたお高の顔は、蝋細工《ろうざいく》のように澄んで、生気がなかった。口のまわりに、このあいだまでなかった皺《しわ》のようなものが、かすかにできかけていた。
 はいって来たのは、龍造寺主計であった。龍造寺主計は、お高を見ると、びっくりしたふうで、いった。
「どうなすった。顔いろがよくない」
「さようでございますか。じぶんでは、何ともございませんけれど」
「何ともなければよいが」龍造寺主計は、敷居ぎわに腰をおろして、縁へ足を投げ出した。「できましたか」
 それは、お高の縫っているもののことであった。お高は、あした旅立つ龍造寺主計のために、肌襦袢《はだじゅばん》を何枚も縫ってやっているところであった。
「もうすこしでございます。こんなに着がえがございますから、たびたびお着かえなさらなければいけませんよ。あなた様のように、一つをいつまでも着ていらっしゃるのは、毒でございますよ」
 龍造寺主計は、そんなことをいうお高をそれとなしに見ていた。お高も、顔を上げて、眼があった。お高は、笑い出した。
「何がそんなに、おかしいのかな」
「あなた様の変わりようでございますよ。ちょっとのあいだに、どこからどこまで、すっかり町人ふうにおなりでございますねえ」
「このほうが、わしの気もちに合うのだ」
「お故里《くに》の方々がごらんなすったら、どんなにかお嘆きなさることでございましょう」
「なあに。もう武士でないわしだから、何をしようと構わぬとあって、結句、よろこぶだろうよ」
「旦那様といい、龍造寺さまといい、どうして結構な御身分をすててすき好んで町人になぞおなりなさるのでございましょうねえ。何ですか、ふかい事情を知らない方は、酔狂のようにお思いになるでございましょうねえ」
「うむ。酔狂といえば、酔狂かもしれぬ。何しろ、気楽だからな」
 しばらく、沈黙が占めた。そのあいだ、龍造寺主計は、めずらしそうに、部屋のあちこちを見まわしていた。感心したように、いった。
「やっぱり女のいる部屋は違うな。どことなく、女らしいところがある」
 お高は、針を運ぶ手を休めなかった。
「さようでございますかねえ、これでも」
「それに、お高どのは、なかなか手まめで、たしなみがよいから、こういうおなごを嫁に持つ男は、しあわせだな」
「まあ、龍造寺さまは、おひと柄に似ず、お口がお上手《じょうず》でいらっしゃいます」
「いや、あんたに、大きな宿屋の采配《さいはい》をふるわせてみても、面白いであろうと思う。たとえば、掛川の具足屋のような」
「こんにちは、いろいろとおほめをいただきまして――」
 お高は、縫っているもので口をかくして、笑った。龍造寺主計は、まじめであった。
「わしは、あす、掛川へ参る」
「ほんと、なみたいていではございません。若松屋さまも、おかげさまで、立ちなおりましてございます」
「いや、わたしこそ、礼をいわねばならぬ。宿場の旅籠の亭主にしろ、何にしろ、わたしという年来の風来坊の腰がすわれば、このうえのことはない。みな、あんたが打ちあけて話してくれたおかげであると、思っておる」
「いいえ。そんなことはございませんが、でも、掛川のほうがうまくゆきますと、よろしゅうございますけれどねえ」
「うまくゆくも、ゆかぬもない。うまくやるようにするのだ。わたしと、若松屋惣七どのと知恵をあわせて」
「そのおことばひとつが、頼みでございます」
「うむ」龍造寺主計は、うなずいて、「若松屋惣七という人物は、知れば知るほど、このましい人物である」
「旦那さまと近しくなすっていらっしゃるお方は、みな様そうおっしゃいますでございますよ」
「いや、そればかりではない。なぜわたしが、若松屋惣七どのに肩を入れるか、あんたには、そのわけがおわかりかな」
「御気性が、おあいなさるのでございましょうよ」
「それもあろう。が、第一の理由は、これまでよくあんたのめんどうをみてきてくれたからだ」
 お高は、ぱっと赧い顔になった。身をすくませるようにした。
 龍造寺主計は、お高のほうへ、平気な顔をつき出していた。
「お高どの、あす発足《ほっそく》じゃ。その前に、ぜひ一つ、きいておきたいことがある。そのために、ちょっとここへやって来たのじゃが、どうだ、わたしのところへ、嫁にきてはくれぬかな」
 龍造寺主計は、お高と若松屋惣七との関係を、知らないのだ。まるで、猫《ねこ》の仔《こ》でももらいうける交渉のような、こともなげな切り出し方だが、ふとい声が、ふるえていた。

      六

 日本ばし式部小路の磯屋の店だ。いそやと書いた暖簾に陽がにおって、天水|桶《おけ》と柳と、行人と犬の影が、まえの往来に濃いのだ。
 ひるさがりだ。磯屋五兵衛が、奥の居間へはいって行くと、そこには、雑賀屋のおせい様のてまえ妹ということに触れこんであるお駒ちゃんが、膝がしらがのぞくほどだらしなくすわって、何か反物をいじくっていた。
 はいって来た磯五を見ると、ふたつの眼《まなこ》に媚《こ》びをあつめて、にっと笑ってみせた。
 磯五はすぐ、あきらかに不愉快な顔をした。たたみを蹴るように、部屋じゅうをあるきまわって、お駒ちゃんがひろげている反物へ、眼をおとした。
「ちっ! へまばっかりやるじゃあねえか。あきれけえって、口もきけねえや」
 かみつくようにいった。お駒ちゃんは、平気の平左だ。
「何がどうしたっていうのさ。いつもいつも、がみがみいうばっかりで、ほんとに、面白くない人って、ありやしないよ――いったい、この反物のどこが気に入らないっていうんだろうねえ」
「どこも、ここもありあしねえ。そっくり気に入らねえんだ」磯五は、何か、炎のような怒りに、つつまれてゆくように見えた。「そんなさばけ
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