って、わしは、掛川へ出かけてみようと思っておる。掛川へつぎこんだおせい様の金さえ、おせい様のほうへ返してしまえば、あの具足屋は、そっくりわたしのものになるわけだから、ひとつあれを育てて、何とか、芽のふくものなら、芽をふかしてみたい気もする」そして、思い出して、きいた。
「おせい様に会ったら、手紙を持たしてよこしたといっておったが、届かなかったか。わしは、まだ見ておらんぞ。どうせ、読まんでもわかっている用向きだが――」
お高は、すっかり気が抜けたようにたち上がって、自室の手文庫に入れておいた、[#「入れておいた、」は底本では「入れておいた。」]おせい様の書状を持って来て、何もかもあきらめたように、若松屋惣七の前へ押しやった。
「旦那様に内密で、勝手に計らいましたようで、まことにすみませんでございますが、できることなら、お耳に入れずに、わたくしの手で何とかいたしたいと存じまして――」
「わかっておる」其室《そこ》に、龍造寺主計がいることを忘れたらしく、声が、感情をのせて、ふるえてきた。
「ありがたかったぞ。が、しょせん、助からぬ命であるのが、この若松屋の店である。いやでも応でも、おせい様から預かった額だけは、磯屋五兵衛のほうへ払いこまねばならぬ」
磯屋五兵衛という名が出たのを聞いて、眠ったように、壁に頭をあずけて眼をつぶっていた龍造寺主計がむくりとしていた。
「磯屋五兵衛か。きやつまた、御当家へも、何か御迷惑をかけておりますかな」
若松屋惣七は、びっくりした。
「磯五をご存じかな」
「知っているも、おらぬも、拙者は、きやつを成敗せんがために、出府いたしたものでござる」
「ほう。成敗――」
「わけは、ただいま、それなる女衆《おなごしゅう》に話しておきました」
が、若松屋惣七は、特別に興味をそそられたふうもない。何も、彼の興味をそそるものは、なくなっているに相違ないのだ。
お高へ、向き直った。しずかに、いった。
「雨が降れば、あとはまた日が照る。これは、世の定めです。いずれ、いいこともあろう。そういえば、きょうは、雨のようだな」
土を打つ細雨の音が、庭にしていた。澄んだ水のにおいが、つめたい微風にあおられて、流れこんできていた。それは、鼻の奥に痛いような、徹《とお》った感じのするものであった。
三人は、それを味わうように、しばらく無言に陥った。
ふと、わがことのように、龍造寺主計が、壁ぎわから声を持った。龍造寺主計は、じれったそうに、舌打ちをするのだ。
「ちっ。のんきだな。聞いていれば、この若松屋を、ひと手に渡そうという、最後の場合ではないか。よほどこみ入った事情があるらしいことは、わたしにもわかるが、もうすこし、何とかして踏みこたえてみる気はないのかな。惜しい」
若松屋惣七の顔は、見るみる冷笑がひろがった。武士に、何がわかる。さむらいというものは、人を斬り殺すことを考えるか、もったいぶって見せかけて、それで、ただで衣食することを考えるか、していればいいのだ。
草のように蒼い若松屋惣七の顔が、龍造寺主計の声のしたほうを、さがした。儀礼と嘲笑《ちょうしょう》だけを、含んだ声だ。
「御厚志は、かたじけない」若松屋惣七は、武士《さむらい》に対すると、いつのまにか、前身が出るのだ。口のきき方まで、武家出らしく、角張ってくるのだ。そうでなくても、不愉快なことがあると、いつもいかつい口調になる。それが今は、武士に対して不愉快なのだから、二重に不愛想なのだ。にべ[#「にべ」に傍点]もなく、いった。
「知らぬことには、口出しをなさらぬがいい」
お高は、はっとして、龍造寺主計をふり向いた。が、お高の心配は、むだであった。
龍造寺主計は、剣術の稽古《けいこ》か何かに、思いきり気もちよく一本やられたときのように、かえってうれしそうに、にこにこしていた。
「眼が不自由であろう。お困りだな」
「大きにお世話です」
「あんたは、正直な人物だ。顔で、わかる」
「ふん」若松屋惣七は、お高を返り見た。「投げ出す気になったら、それこそ、正直なものだな。急にせいせいしたよ」
二
お高は、にわかに思いついたことがあるらしく、その、若松屋惣七のことばには答えずに、くるりと、壁の龍造寺主計へ、膝を向けた。
「わたくしから、すっかり申し上げますでございます」
必死の色だ。若松屋惣七が、
「お高、ゆきずりの客人に、よけいなことを話すまいぞ」
と、声を高めたのも、耳へはいらないのか、はいっても、無視したのか、お高は、なみだに濡れて異様にきらめく眼で、龍造寺主計をみつめて、いい出していた。
「じつは、あの磯五というお人が――」
龍造寺主計がさえぎった。
「その磯五だが、磯五は、あんたの何かではないのかな。どうも、全然かかわりのない仲とは思えん」
お高は、声をのんで、ちらと若松屋惣七を見た。磯五の妻であるとは、誰も知られたくなかったので、若松屋惣七が、そばから口を入れて、そう打ちあけはしないかと懸念したのだ。が、惣七がだまっているのでお高は安心した。惣七以外の人には、あくまでその秘密を押し通していこうと思った。
「いいえ。これからお話を申しあげるような、こちら様との取り引きを通して、存じ上げておりますだけでございます」
「さようか。それで安心いたした。何なりとうけたまわろう」
安心はおかしいと、惣七も、お高も思った。が、惣七は、もうお高にまかせて、黙りこんでいた。お高は、いっしんに先をいそいでいた。
できるだけ順序立てて、ひととおり今度のいきさつを話し終わった。
話し終わるのを待って、龍造寺主計が、質問をはじめた。それは奇妙な問いから、はじまった。若松屋惣七は、まるで他人のうわさでも聞くように終始もくもくとして、腕を組んでいた。
「お高――どの、といわれましたな。お高どのは、友だちというものがほしいと、思われることはないかな」
お高は、何という悠長《ゆうちょう》な人であろうと、まじめに応対するのが、莫迦《ばか》々々しくなった。しかし、返事をしないわけにはゆかないので、
「はい、親身に相談のできるお知りあいがあればよいと、しじゅう願っておりますでございます」そして、すぐつけたした。「旦那さまのほかに」
「うむ」龍造寺主計は、まじめとも冗談ともつかずゆっくりとうなずいて、「しからば、わたしを、その一人に考えてくだされい」
「はい。ありがとう存じます。それはもう、勝手ながら、自分だけでは、そう思わせていただいておりますでございます」
「膝とも談合と申すぞ.ましてともだちなら何をきいても、よいわけじゃな」
「はい。どうぞ何なりと――」
「では、きく」
「はい」
「かの磯五なる男が、この江戸でも、金を眼あてに女をたぶらかしていることは、おどろかぬ。先ほども話したとおり、若竹の件をはじめ、上方におったころから、そういう人物であった。おそらく昔から、そういう人物であったろう。が、その磯五のために、この若松屋が滅びんとしているとあっては、黙過できぬ。そこでだ。磯五の女房という女は、まだ生きているのかな」
「はい、生きておられますでございます」
「どこに」
「それは、申し上げられませんでございますが、でも、確かに、生きていらっしゃるのでございます。この江戸に」
「あんたは、その女を、知っているのか」
「はい。よく存じておりますでございます」
「若松屋さんも、承知か」
「磯五の内儀は、ご存じないようでございますが、その女が江戸におられますことは、ごぞんじでございます」
「どうしておる、その磯五の妻は」
「良人の磯五さんにすてられましてから、別人のように、かしこくおなりでございます」
「すると、以前は、馬鹿な女であったのかな」
「はい、何ひとつ世間さまのことを知らぬ、愚かなおなごでございました」
「さようか。わたしは、この若松屋惣七という人が好きである。いま会うたばかりだが、何年、何十年|識《し》っておっても、きらいなやつはきらい、ちょっと見たのみでも、これはと思う人は、このもしくなるものだ。友情とは、そのようなものです。ところで、何とかできぬかな。若松屋を助ける方法だが」
三
龍造寺主計は、うすぎたない旅の浪人だが、龍造寺主計は、単に子供が好きだというだけで、久しぶりに江戸へ出た記念《しるし》に、縁もゆかりもない金剛寺の一空和尚の学房へ、いささかまとまったものを献じただけでも、あまり金に困っていないことが、わかるのだ。
事実、龍造寺主計は、庄内《しょうない》十四万石、酒井左衞門尉《さかいさえもんのじょう》の国家老《くにがろう》、龍造寺|兵庫介《ひょうごのすけ》の長子である。長子だが、年少のころから、泰平の世の儀礼一てん張りの城づとめが、いとわしく思われだした主計だ。武士も、この享保《きょうほう》にいたっては、本来の面目をはなれて、すでに、宮づかえの長袖に堕しているというのである。
当否はとにかく、じぶんの生活をそう感じるようになった龍造寺主計には、全く公卿《くげ》にも似た馴致《じゅんち》と遊楽と、形式と慣習と、些末《さまつ》な事務よりほか何ものも約束しない、奉公の将来が、すっかり、底の見えたものに考えられてきた。あっけなくなった。固苦しく、わずらわしいだけだ。何らの魅惑をも、若い龍造寺主計のうえに、投げなくなってしまった。
ときどきそういう心理におちることは、何をしていても、誰にでもあるものだが、龍造寺主計も、この無情の風を引きこんだのだといってもいい。ただ、龍造寺主計のは一時ではなくて、長くつづいた。それでも、しばらくは、藩中の変物で通っていた。
そのうちに、龍造寺主計は、痴唖《ちあ》ということになって、龍造寺家から、正式に、主計の廃人届が出された。まもなく、彼は庄内を出奔して、それ以来、こうして、他人のことにあたまをつっこみながら、諸国の山河のあいだに放浪してきたのである。
故郷《くに》では、弟があとをとって、龍造寺兵庫介を名乗っている。金は、いってさえやれば、そこからもいくらでもくるし、江戸の屋敷からもいくらでも引きだすことができるし、ひとのことばかり頭痛に病んで国々をあるきまわっている変人の龍造寺主計だが、金にだけは、苦労を知らないのである。弟というのが、陰に陽に気をつけているのだ。
いま、お高からだんだんと話を聞いてみると、若松屋惣七を助けるためには、この、庄内藩の国家老の家に咲いた変わり花の龍造寺主計が、金を出してやればいいのである。龍造寺主計は、すぐ出してやろうと思った。ただその名義だ。やたらに金を出すというのでは、誇りの高い江戸の人間でしかも武家出である若松屋惣七だ。とても承引《しょういん》をしないにきまっている。
それかといってこの若松屋の店を買いとって、それをすぐそのまま若松屋に返上して、金だけ用立てたようにするのも、見えすいているようで面白くないのだ。その金を出す形式について、龍造寺主計は、あたまを悩ました。
掛川の具足屋について、一伍一什《いちぶしじゅう》を聞いた。それを考えた。若松屋惣七が、この掛川の具足屋で大穴をあけて、そのためにこんにちの破滅を招いたということは、ちょっと合点がゆかないのだ。このことは、うき世離れがしているようで、旅をしていろいろな人間に会っているので、世俗のことに通じている龍造寺主計を、不審がらせた。
それも、お高のはなしで判明した。若松屋惣七は、商人の柄になく、出さなくてもいいところへ金を出したりして、侠気《きょうき》といえば侠気だが、それでいま苦しんでいるというのである。が、ここしばらく持ちこたえていさえすれば、具足屋という旅籠《はたご》が、もうけを上げるようになることは、見えすいているというのだ。龍造寺主計は、考えていた。
「わたしも、ここらでいいかげん、ちょっと落ちついてみてもいいのだ」と、いった。「腰をすえて、若松屋惣七どののように、町人に鞍《くら》がえするも、また面白いかもしれぬ」
冗談でもなさそうだった。そして、つけ加えた。
「それで
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