しくなってきた。お高は、またそっと部屋を出て、縁から庭|下駄《げた》をはいて、庭へおりた。
 土が、しめっているのだ。うす陽が、梅の木を照らしているのだ。梅の木には、花があった。おそい蕾《つぼみ》もあった。蕾は、むすめの乳首のようだ。お高は、その薪《まき》のような梅の木にも、そんな萠《も》える力があるのかと何だか恥ずかしいような気がした。
 肩が重く意識されてきた。小雨だ。朝から、日照り雨が渡ってるのだ。一雨ごとのあたたかさが、来るのだ。そこにも、ここにも、春のにおいがある。お高は、鼻孔をふく雨をすいこんで、それをかいだ。
 濡れるのもかまわず、その香をむさぼって、あるきまわっていると、離室の雨戸が繰られて、龍造寺主計の寝巻きすがたが、立った。
 龍造寺主計は、やっこ凧《だこ》のような、糊《のり》のこわい佐吉の浴衣《ゆかた》を、つんつるてんに着ていた。毛だらけの脛《すね》を出して、笑っていた。
 お高を見ると、そのまま縁側に腰をかけて、そばの板の間をたたいた。
「ここへ来て、掛けなさい。きのうの蜻蛉のはなしをして進ぜる」

      三

「あの、いま磯屋五兵衛と名乗っている男のことだが驚かれましたかな」
「何を驚いたかとおっしゃるのでございますか」
「いや、わたしがねらっているのは、あの男だと知ってあんたは驚いたことであろうが、わたしもあんたのような無邪気な女が、あんな男と相識《しりあい》らしいのに、驚かされましたぞ」
「しりあいと申しましても、べつに、しりあいではございません」
「そんなことは、あるまい。あそこで、会っておったのだろうが」
「いいえ。そんな、決して、そんなことはございません」
「なければよいが、わしは、思ったとおりいう男だ。相識でない者を、なぜあんなにかばったのです」
「相識ではございませんが、ちょっと、用事がございまして――」
「それみなさい。何の用か知らぬが、あの男に近づくと、いいことはありませぬぞ」
「さようでございましょうか」
「これから、その証拠を話してあげようというのだ」
「はい」
「若松屋惣七どのは、帰られたかな」
「昨晩おそくおかえりになりましてございますが、まだおやすみなされていられますでございます」
「後刻、お眼にかかろう」
「はい」
「大阪のことでござった。声のいい、浄瑠璃《じょうるり》語りのおなごがありました。若竹《わかたけ》といってな、人はみな、竹女《たけめ》と呼んだ」
「はい」
「若竹という名を、聞いたことがおありかな」
「いいえ」
「江戸までは、届かなんだかもしれん。京大阪では、たいそうな人気であった。何でも、生まれは江戸で、幼少のおりにあちらへまいったとのことであった。江戸の生家は、相当の家であったらしいが、竹女は、何もいわぬから、知れておりませぬ。
 とにかく、上方で芸人として名を成した。一時は、大変なものであった。金も作った。が、そこへ男が現われて、竹女はその男へ、身も心も与えたのだ。この男こそ、義理も人情も人のまこともわきまえぬ、けだもののごときやつであった。それがあの磯屋五兵衛である。当時何と名乗っておったか、覚えておらぬが、顔は忘れぬ。あの男です。
 あの男が、竹女のあとをつけまわして、金をまき上げた。夫婦約束までして、おんなの心を釣っておいた。きょうあすにでも、晴れの式をあげるようなことをいって、女をだましたのだ。外眼《そとめ》にも、竹女はあの男の手足であった。すべていうがままになって、男のためには何でもしたのです。何もかもささげたのだ。病を押してまで働いて、金をみついだ。
 すると、もうこれ以上いつわっておけぬところまで来て、男が打ちあけたのです。じつは、じぶんには、江戸に妻があって、正式に夫婦になるわけにはいかぬという。そう聞かされても、竹女はあきらめきれずに、やはり、取る金を、右から左に男にやっておったものだが、そのうちに男は、江戸から遊びに来ておったおせい様とやらいう町家《まちや》の女隠居とねんごろになって、それとも夫婦約束をしたとわかって、若竹は、何もいわなかった。くびれて、死んでしもうた」
「まあ――?」
「その磯屋五兵衛を、あんたのような潔《きよ》げな女が相識の模様でかばい立てしようとは、思わなんだ」
「あなた様は、その、若竹さまとやらおっしゃる方を、お好きだったのでございますか」
「うむ」
「それから、その男の方は、どうなすったのでございます」
「おせい様と江戸へ舞いもどったと、聞き及んだ」
「あの人が、磯屋のお店を買いとったお金は、そうしてできたのでございますか」
「若竹からは、大金を絞りおったぞ」
「そうして、あの人の手は、女性《おなご》の血に染んでいるのでございますね。あの人は、足でおなごの誠《まこと》に踏みつけて、立っていらっしゃるのでございます」
「あんたは、あの男と、何か特別の関係ででもあるのかな」
「いいえ、そんなことはございません」
「そうか。そんならよいが――」
「あの人はいままた、そのおせい様から、お金をまき上げようとしているのでございます。おおかた、お金をまき上げたうえで、すてるのでございましょう」
「もとより、そうにきまっておる」
「それを、知っていて、黙って見ているよりほかしかたがないのでございます」
「わたしは、強いことは相当強いつもりだが、簡単な男である。話してくれぬことは、わからぬ」
「はい。いずれ、すっかりお話し申し上げますでござります」

      四

 若松屋惣七の居間で、人をよぶ惣七の声がしていた。彼は、いつのまにか起きて、寝間を出て、奥の茶室兼帳場へ来ていた。お高は、いそいそとはいって行って、手をついた。若松屋惣七は、かすんでいる眼を、お高へ向けた。
「お高か」
「はい。高でございます。久しくお眼にかかりませんでございました」
 若松屋惣七は、庭の老梅の幹のような、ほそ長い、枯れた顔を、まっすぐに立てて、きちんと端坐《たんざ》していた。いらいらして、膝をふっていた。膝のまえに、何やら書類のようなものが、四、五枚ちらばっていた。
「泊まり客があるそうだが――」
「旅のおさむらい様でございます。きのうお見えになって、そのままお泊まりになったのでございます。江戸の人をさがすにつけて、旦那さまのお力を借りたいとかおっしゃってでございましたが、磯五さんがわたくしに用があるといって、金剛寺まで呼び出して話をしているところへ来なすって、磯五さんを見ると、それが、その、捜していらっしゃる当の相手でございました。お強そうな、お立派なお武家さまでございます」
 お高は、簡単に、いま聞いた、龍造寺主計が磯五をねらって出府したわけを、若松屋惣七に話した。
 若松屋惣七は、眉間《みけん》の傷痕《きずあと》をふかくして、顔をしかめた。
「いずれ、そういうことであろうと、思っておりました。お前の良人――とは呼びとうない。磯五だ。磯五とは、ゆうべおそく、拝領町屋のおせい様の家で会いましたが、じつにどうも唾棄《だき》すべき人間である」
「はい。それははじめからわかっておりますことでございますが」いいかけて、お高は、はっとした。「すると旦那様は、おせい様があわててお取り立てをおはじめなすったうらに、磯五がおりますことを、もうご存じでいらっしゃいましょうね」
「迂濶《うかつ》なようじゃが」若松屋惣七は、無表情な顔のまま「ゆうべはじめて知った。驚いた」
 が、べつにたいして驚いたふうもなく、見えない眼を小雨の庭へ向けて、身じろぎもしないのだ。連日奔走ののちの虚脱した気もちにいるに相違ない。
 お高は、いざり寄った。
「わたくしは、おせい様のお手紙で、前から存じておりましてございます。できることなら、おせい様に思いとどまっていただこうと存じまして、いろいろと骨を折りましてございましたが――」
「そういうことであろうと、思っておった。わたしはお前が帰ったあと、おせい様の家へ出かけて行って、膝詰め談判をしてみた。すべてむだであった。おせい様は、磯五と夫婦になる気でおる。女子というものは、愚なものだな。磯五に妻のあることを、わしは話してやったぞ」
「あら、わたくしのことを――?」
「いや、いや」若松屋惣七はしお辛い笑いだ。「お前という名は出さぬ」
「はい」お高は、ほっとして、
「わたくしも、そこまではいえませんでございましたが、きのうは、磯五さんがおどかしに参りましたので、わたくしのほうから、いってやりましてございます。おせい様を突ついて若松屋さまからお金を取り立てることをよさなければ、わたくしがおせい様に身分を明かすと申したのでございますが、磯五という人は、こういうことにかけましては鬼のように強いのでございます。何といいましても、平気なのでございます。
 ほんとのことが、すっかりおせい様に知れたところで、おせい様はやはり、こちら様からお金を取って、磯屋へつぎこもうとするに相違ない。それは、わたしにも、どうすることもできないなどと、しゃあしゃあしたことを申しまして――」
「いや、そのとおりなのだ。おせい様自身、わたしにはっきり[#「はっきり」に傍点]そういいました。おせい様は、すっかり、磯五と一心同体になっておる。よくもああ掌《て》のうちに丸めこんだものだと、むしろ感心いたしたよ。
 そこで、今後は、おせい様のことは、いっさい磯五が後見するというのだ。このことも、磯五と話し合ってくれというのだ。そういって突っ放された。磯五となら、まとまるはなしも、まとまらぬにきまっておる。談合の要はない。若松屋も、もうあきらめました」
「あの、おあきらめなすったと、おっしゃいますと?」
「この若松屋の名と、両替の店を、暖簾《のれん》ごと手放すのだ、買い手のこころ当たりも、ないことはない」
「では、どうあっても――」
 お高の顔いろが変わった。眼がすぐ泪《なみだ》で光って来たとき、
「若松屋惣七殿ですか。龍造寺主計と申します」
 声が、絹雨の縁側から上がってきた。背負ってきたふろしき包みからでも出したのだろう。龍造寺主計は、旅装束を着かえているのだ。
 若松屋惣七が、声のするほうへ向かって、ちょっと衣紋をつくろっているうちに、龍造寺主計は、さっさと部屋へはいって来て、すわってしまった。
「若松屋惣七でございます」
 若松屋惣七は、かるく頭をさげた。誰にむかっても、低くあたまを下げないのが、若松屋惣七なのだ。
「せっかくの御光来に、他行をしておりまして、失礼をいたしました」
「いや、わたしこそお留守に上がって泊まりこんで――」
 龍造寺主計は、そういって、若松屋惣七とお高の顔を、見くらべた。
「何です。お取りこみな。お邪魔なら、また後刻――」
 おどろいたようにいって、たちかけた。


    水ぬるむころ


      一

 お高は、若松屋惣七が、どうしても若松屋の店を手放さなければならない。買い手の見込みも、ついている。それが、雑賀屋のおせい様へ金をそろえる唯一の途《みち》なのだ。と、聞かされていたときなので、無遠慮に割り込んで来た龍造寺主計も、眼にはいらないふうだ。
 押えても、泣き声になってきた。
「どうしても、そうなさるよりほか、方策がないものでございましょうか」
 若松屋惣七は、帰ろうとしている龍造寺主計をとどめながら、お高のほうへも答えようとした。が、龍造寺主計に、気を兼ねた。
「何だ。そんな内輪の話は、あとでしなさい。失礼ではないか」
 龍造寺主計は、これを聞くと、部屋の一隅《いちぐう》へさがって、壁によりかかって、すわった。不思議そうな顔をして、腕を組んで、ふたりを見くらべはじめた。
 他人のことは、すなわち自分のことであると、いっさい自他無差別の一種の生活信条を持っている、この龍造寺主計である。黙って、お高と、若松屋惣七の会話《はなし》を、聞き出した。
 また、そこにそうしていても、妙に邪魔にならない存在なのだ。
 若松屋惣七が、お高にいっていた。
「商売を売るより、ほかに途はつかないのだ。で、売ります。売って、からだ一つにな
前へ 次へ
全56ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング