は蜻蛉《とんぼ》じゃが」と、和尚はさとすようにいった。「兎もとれまい。兎はおらんから。おれば、わしがとらえて、兎汁にするが」
龍造寺主計は、一空和尚のところへ来る学童のために金をおさめたのち、山門まで和尚に送られて、出るところであった。一空和尚は、龍造寺主計という人間が、すぐすきになったとみえて、ことわるのに、そこまでといって、ならんであるいて来たのだ。
龍造寺主計はあわてふためいているお高のようすを、ただごとではないと思った。やさしく抱き起こしてきいた。龍造寺主計は、女には、やさしいところがあるのだ。それは、いやみのあるやさしさではなくて、強いものが弱いものをいたわるというだけの、自然なやさしさだ。
「何ごとが起こったのか。わる者にでも追われましたか」
お高は、明るい世の中へ帰ったようで、うれしかった。着物のみだれを直しながら、しきりに、逃げてきたほうをふり返った。そこの樹のあいだから、今にも磯五が飛び出して来そうで、飛び出して来たら、こんどはこっちから、思いきりいいののしってやりましょうと思った。やっと呼吸《いき》をしずめて、口をきいた。
「あの、磯屋五兵衛さまが――」
と、いいかけた。龍造寺主計は、一空和尚の顔を見た。それから、お高へ眼をかえした。
「磯屋五兵衛と申すのは、何者かな。わたしは知らんぞ」
「わしも知らん」
一空和尚が、いった。お高は、ふたりが磯五を知っているわけはなかったと気がついて、いきなり名まえをいったじぶんが、おかしかった。が、何者かときかれて、返事に困った。何者かといえば、良人でございますというほかはないので、それは、いやであった。
「日本橋の呉服屋さんでございます」
「日本橋の呉服屋がどうしたのです。どうもわからんな」
「わしにも、わからん」
「いえ」お高は、このまますましたほうがいいと思った。おかしくなって、くっくと笑い出した。「何でもないのでございます。ちょっと――」
「いや、何でもないことはあるまい。ちょっと、どうしたというのか」
「はい。ちょっと――」
「その者はどこにおる」
「もうどこかへ行きましてございます」
「そんなことはあるまい。拙者が見届けて進ぜる。こっちへ来るがよい」
お高は、ためらった。もし磯五が、この荒っぽそうなお武家さまにつかまって、ひどい眼にあわされるようなことがあっては、可哀そうだと思った。かるく抗《あらが》った。
「いえ。もうよろしいのでございます」
が、龍造寺主計に手をとられて、せきたてられてみると、もともと自分のことなので、また衣かけの松のほうへ引っかえして、龍造寺主計を案内しないわけにはゆかなかった。一空和尚も、ついて来た。お高は、磯五はもういないだろうと思った。いてくれなければいいと願った。
衣かけの松の見えるところまで来ると、お高は、立ちどまった。羽織を着直した磯五が、ぶらぶらこっちへ歩いてくるところであった。
「あれか」
「はい。あの人が、磯屋五兵衛さまでございます」
「ふうむ。あれが、な」
龍造寺主計は、感心したように、うめくようにいった。そして、ぼんやりお高の手を放して、足早に、磯五に近づいて行った。ぴたりと、磯五の前にとまった。
磯五は、ちょっと驚いたようだったが、平気で、龍造寺主計をみつめていた。龍造寺主計は、左手ですこし刀を押し出して、口をまげて、お高をかえり見た。それから、また、じっと磯五を見すえた。
「化けおったな、こいつ」
磯五は、顔いろひとつ変えなかった。お高のほうが驚倒した。お高は、龍造寺主計の腰にある刀が、今にも走り出そうな気がして、とっさに何もかも忘れて、ふたりのあいだへ割り込もうとした。
一空和尚が、にこにこ笑って、抱きとめた。
龍造寺主計が、声だけお高のほうへ向けた。
「会うたぞ。この男なのだ、さがしているのは。もう、若松屋に頼むことはない」
寒雨《かんう》
一
自分を忘れたお高だ。また、ふたりのあいだへ割り込もうとした。名のみの良人であるばかりか、いまは敵となっている磯屋五兵衛だ。が、この磯五の急場にあたって、お高のこころに残っている愛の破片が、お高をじっとさせておかなかったのだ。お高は、一空和尚の腕をふりほどいた。磯五をかばうように、龍造寺主計の眼下に立った。
龍造寺主計《りゅうぞうじかずえ》は、はや鯉口《こいぐち》を押しひろげて、いまにも右手が、柄《つか》へ走りそうに見えるのだ。
「何ごとか存じませんでございますけれど」お高は、うわずった声だ。「ここは、御門内でございますよ。さっき御制札がございましたよねえ。何とございましたかしら。御門内にて、とんぼ獲ることならんぞよ――」
笑おうとした。笑えなかった。お高を見おろしている龍造寺主計の眼が、笑った。
「うむ。なるほど。そこで、この蜻蛉も、ゆるしてやれというのか」
磯五は、土いろの顔をこわばらせて、無言だ。お高は龍造寺主計へ、にっこりした。
「さようでございます。どうか、このとんぼを、逃がしておやりなすってくださいまし」
「とんぼは、面白い。たとえ蜻蛉一ぴきでも、寺内において殺生は遠慮せずばなりますまい。わかった。いずれ機会はある。ここでは斬らぬから安心しなさい。いや、これが、わたしが江戸へ捜しに参った当の男なので、顔を見たとき、むかむかとしたまでだ。大丈夫ここはこのまま逃がしてやる。うふふ、いかさま御門内じゃ。とんぼは獲らぬ。が、このとんぼめ、いまは何と名乗って、どこに住んでいると申したかな」
磯五は、もうけろりとして、龍造寺主計の顔をみつめたまま答えようとしないので、お高が、代わって答えた。
「日本橋式部小路の呉服太物商、磯屋五兵衛と申すとんぼでございます」
「あくまでとんぼか」龍造寺主計は、やわらかになった眼を、お高へ置いて「その磯屋五兵衛を許すのではない。お前のあつかいによって、とんぼを一匹ゆるしてつかわすのだ。しかし、上方で、こやつは何と申しておったか、ただいまちょっと失念いたしたが、むこうで会うたこともあるし、わしは、人の顔を見違うことはない。この顔だ。盛り場の人込みで一瞥《いちべつ》しても、識別いたす。この顔です」
一空和尚が、はじめて口を出した。
「何だ。面白うもない。喧嘩《けんか》は取りやめかい」
吐き出すようにいって、本堂のむこうにある自分の庵室《あんしつ》のほうへ、どんどん帰って行った。
磯五は、終始《しゅうし》口ひとつきかなかった。平気な顔だ。さっさと実朝の碑のほうへ歩き出していた。そっちを廻わって、門を出てゆこうというのだ。その磯五のあとを見送っていた龍造寺主計に、瞬間、ふたたび激しい憎悪がひらめいたが、しずかに話しながら、お高とならんで、おなじく帰路につきかけた。ゆっくり、あるいた。
「もう若松屋惣七どのにお眼にかかって、たずね人に力ぞえをたのむ要もなくなった。運命が、若松屋殿の役目をしてくれた。日本橋の磯屋五兵衛なるものが、きやつであるとわかっておれば、あとは、いつでもよい。いつでもできる」
境内から樓門《さんもん》へかかったときは、先に出た磯五のすがたは、もう通りのどこにもなかった。
お高は、磯五と、その旅の武士《さむらい》との関係が気になって、磯五が京阪《かみがた》で何をしたのか、早く聞きたくてならなかった。磯五は、何もいわないのだ。しかし、この龍造寺主計という人の出現で、じぶんと磯五と若松屋惣七さまとのうずまきが、いっそうこんがらかってきそうなことは、考えられるのだ。
龍造寺主計は、自分のさがしている男は、公儀のおもてはそうでなくても、神仏の眼からは人殺しであるといった。きっとまた、ひたむきの女のこころとからだをもてあそんで、何か悪いことをしたのであろう。お高は、それにきまっていると思った。
若松屋惣七ほど、磯五の性格をつかんでいるわけではないが、あの人がよくないことをすれば、それは必ず異性に対してであると、じぶんの経験や、その後の磯五に関する見聞によって、お高は、信じ切っているのである。はじめから男を相手どって、それを敵にまわすような、さわやかな人物ではないのだ。
それが、いま磯五は、龍造寺主計というはっきりした敵を、この江戸に持つことになったのだ。お高は、とんぼとして助けられたきょうの磯五が、何だかみじめに思われてきた。今のように、男対男として、ほかの男のまえに立つと、ずうずうしいうちにも、ぽっちゃりとしてやさしい磯五が、妙に可哀そうに思われてきた。このさき、どうなるであろうかと思った。
龍造寺主計は、何か考えている。黙って、歩いている。お高は、そっと龍造寺主計の横顔を見た。そこにお高は、磯屋五兵衛とは極端に反対な人間を見た。やわらかい心臓を包んでいる強い線が、龍造寺主計だ。おなじ男で、こんなにも違うものであろうかと、お高は思った。
二
龍造寺主計は、それきり何もいわなかった。つれだって、金剛寺坂の屋敷へ帰ってみると、若松屋惣七はまだかえっていなかった。
龍造寺主計は、もう若松屋惣七に会う必要がなくなったから、待たなくともいいといったが、どこへも行くところがないので、お高の厚意で、若松屋方へ泊まることになった。お高は、佐吉に命じて、龍造寺主計のために、離室《はなれ》に床をとらせた。
佐吉に、龍造寺主計のめんどうをみさしておいて、じぶんは、居間へ帰った。しばらく起きていて、若松屋惣七のかえりを待ってみたが、帰りそうもないので、寝る支度をはじめた。
するりと着物を脱いだところへ、ふすまがあいたので、お高は、びっくりした。着物を前へかけて、その場へしゃがんだ。それは佐吉であった。佐吉は、白い肩を見せてすくんでいるお高を見ると、あわてて襖をしめた。
「何ですよ。そこでいってくださいよ」
佐吉は、外でいった。
「離室《はなれ》のお客さんが、御酒《ごしゆ》を所望なすっていられるのです。宿をするぐれえなら、寝酒はつきものだとおっしゃるので」
「そうですよ」お高は、おかしかった。「出して上げてくださいよ」
佐吉の跫音が遠ざかってゆくと、まもなく、ひとりで酒をくみながら唄うらしい、龍造寺主計の声が、庭のやみに漂って聞こえてきた。
「きんらい酒にあてられて――」
お高は、床のなかで、小さな声をたてて笑った。
お高は、金策に出たきり帰らない、若松屋惣七のことを考えて、眠れなかった。じぶんの考えたことが、すべて失敗に終わったことも、思い出された。おせい様に、ほんとうの磯五を見せようとして、だめだったこと。若松屋惣七様からお金を取り立てることをよさせようとして、よさせられないこと。磯五に、ひとりでぶつかってもみたが、何にもならなかったこと。それからそれと、あたまが、冴えていった。
早く起きた。おっくうに思いながら、身じまいをすました。滝蔵が、膳を持ってきたが、箸《はし》をとる気になれなかった。
「旦那さまは?」
「ゆうべおそくお帰りになって、奥でおやすみですよ」
「あれ、なぜわたしを起こしてくださらなかったのだろうねえ」
「此室《こちら》をのぞいていなすったが、あまりよく眠《ね》ているとおっしゃって、奥へ通られて、すぐお寝なされたのですよ」
「いやですねえ。どんなに眠っていても、起きたのにねえ」
いってから、お高は、赧い顔をした。佐吉も、ちょっと笑った。お高は、もうたち上がって、部屋を出かかっていた。
「まだお眼ざめではないでしょうけれど、ちょっといってみましょうよ」
「まだお眼ざめはねえのです」
お高は、奥の若松屋惣七の寝間へ行って、そっと障子をあけてみた。枕のうえに、死面のように蒼白い、若松屋惣七の寝顔があった。それは、憂苦のためにいっそう頬がこけて、けずったような、ほそ長い、するどい顔であった。
お高は、それに吸い寄せられるように、あし音を忍ばせてはいって行って、まくらもとにすわった。夜着のはしに手をかけたが、疲れて熟睡しているらしいので、起こす気になれなかった。すこし口をあけている顔をみつめていると、お高は、悲
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