から、心配しないでくださいよ」

      二

「おや、お前さまは五兵衛さまではございませんか。いやでございますねえ。何ぞわたしに、急な用事でもできたのでございますか」
 若松屋惣七方のうら手、小石川上水堀の端《はた》にある金剛寺は、慧日山《けいにちざん》と号し、曹洞派《そうとうは》の名だたる禅林だ。境内《けいだい》に、源実朝《みなもとのさねとも》の墓碑が[#「墓碑が」は底本では「幕碑が」]あった。碑面には、金剛寺殿《こんごうじでん》鎌倉右府将軍《かまくらうふしょうぐん》実朝公《さねともこう》大禅定門《だいぜんじょうもん》と大きく一行に彫ってあった。
 その実朝公の碑のまえに、人目を忍ぶように立っていたのは、磯五であった。磯五は、近くに遊んでいた、子守娘に駄賃をやって、こうしてお高を呼び出したのだ。子守は、お高をそこまで案内して、役目をはたして立ち去って行った。
 磯五は、何にもいわずに、お高についてくるように眼くばせをして、先に先って[#「先に先って」はママ]あるき出した。碑の裏へまわって、松林のなかへはいって行った。お高はしぶしぶあとを踏んだ。
「何の御用か存じませんが、なぜうちへいらっしゃらずに、あんな娘《こ》を使いによこして呼び出したりなさるのでございますか」
 そこは老松と老杉の幹にかこまれた、ちょっとした開きだ。下は、茶色になった去年の雑草だ。むこうに本堂が見えるのだ。
 ここに、衣《きぬ》かけの松といって、名木になっている、いっぽんの木がある。下枝が一本、物ほし竿《ざお》のように横一文字に伸びて、地上三尺ばかりのところを、長く突き出ているのである。さながら衣をほすために細工したようであるというところから、いつからともなく衣かけの松の名があるのだが、いま磯五は、この衣かけの松の、横に張り出ている枝に肘《ひじ》をのせて、よりかかった。お高は、枯れ草のあいだにしゃがんだ。
「あのめくら野郎に会いたくねえから、おめえにここまで出て来てもらったのだ」
 磯五は、お高にうす笑いを落とした。お高は、自分のほうから、一人とひとりで磯五にぶつかっていこうとさっき決心したことを思い出して、これはいい機会だと思った。
「わたしのほうにも、いいたいことがありますでございます。ざっくばらんにいいますよ。おせい様をだまかすのはよしてくださいまし。あなたがおせい様をだまして、いっしょになるの何のとちゃらんぽらんをいうものですから、おせい様が、若松屋さんからお金を引き出そうとして、若松屋さまもわたしも、たいそう苦しめられておりますのでございます」
「他人の金を預かっておきながら、自用にまわしたりするのが悪いのだ」
「わたしはおせい様に、お前さまには女房があって、その女房は生きていますといいましたでございますよ」
「そんなことだろうと思って、きょう限り、おれのことにはかかりあってもらうめえと、それをいいに来ましたよ」
「お前さまこそ、きょう限り、おせい様をそそのかして若松屋さまからお金を取り立てることをよさなければ今度は、このわたしこそ磯五の女房でありますと、おせい様に打ちあけるつもりでございます」
「ははあ。それは面白い」
 磯五は、せせらわらって「ぜひ打ちあけてもらおう」
 お高は、あいた口がふさがらないように、磯五を見上げた。磯五は、うそぶいていた。
「おめえが何といったところで、おせい様は、おめえよりもおれを信じるのだ。なるほど、おめえがその女房だと名乗れば、何よりの証拠だから、おせい様もびっくりするだろう。悲しむだろう。が、いくらびっくりしても、悲しんでも、それかといって、そのときからおれがきれえになるわけのものでもねえ。かえって、いっしょになれないとわかれば、いっそうつのってくるのが、ああいう女のこころもちだ。高音、藪蛇《やぶへび》だぜ、これあ。藪蛇はよしな」
「何が藪蛇でございます」
「薮蛇じゃあねえか。よく考えてみなさい。おめえがおせい様に身分を打ちあける。すると、おせい様の心になってみれば、おめえというものがあるばっかりに晴れておれと夫婦になるわけにゆかぬ。すりゃ、おせい様はおめえが憎くなる。嫉《や》けてもくる。
 その憎い恋がたきのおめえが、おせい様の道に立って邪魔しながらじぶんでは、一方にあの若松屋とねんごろにしている――おせい様は、おめえに対する意地からでも、いっそう激しく督促して、若松屋をいためつけるに相違ねえ。これは誰に聞かせても、むりのねえところだろうと思うのだ」
「わたしは、何も、おせい様のお金のことばかり申すのではございません。お前さまがあのお方をたぶらかしているのが、悪いというのでございます」
「うんにゃ、そうじゃあねえ。お前は若松屋のほうさえ取り立てが延びれば、それでいいのだろう。ちゃんと面に書いてあらあ。好きな男のために、と。あははははは――おらそれが気に入らねえのだ」

      三

「いったい何の御用でわたしをここまで呼び出したのでございます」
「おめえが拝領町屋へ出かけて行って、よけいなことを  ようだから[#「  ようだから」はママ]、それをやめさせようと思って、急に出向いて来たのだ。わるいことはいわぬ。早々このことから手を引いたほうが、おめえのためだろうぜ」
「それこそよけいなお世話でございますよ。わたしは、お前さまのようなお人が、四方八方に迷惑をかけているのを、黙って見ているわけにはゆきませんでございますよ。手を引けなどと、よくもそんな虫のいいことがいえましたねえ」
「昔のよしみだ。なあ、高音、たがいに邪魔だけはしないことにしようじゃないか」
 磯五がにっこりすると、ちらりと白い歯が走って、小指の先ほどのえくぼがあくのである。お高は、その顔を見ないように眼を伏せて、足もとの枯れ草をむしった。
「いやでございますよ。もうその手には乗りませんよ」
「一言いっとくぜ。後悔しねえようにな」
「おどかしはききませんよ」
 と、いったものの、お高は、とうてい自分が、磯五の敵でないことを知った。手も足も出ないのだ。磯五は、先のさきまで見抜いてる。女のこころもちというものを、鏡にかけるように、すみずみまで知っているのである。
 彼のいうとおり、たとえおせい様は、お高が磯五の女房であって、そのために磯五といっしょになれない。その点では、磯五にだまされていたと知っても、ちょいと何か磯五がうまいことをいいさえすれば、また、ちょろりとごまかされて、かえって磯五に同情を寄せるようなことになるだろう。そして、お高への嫉妬《しっと》と反感から、いっそう若松屋惣七をせっつくことであろう。かえって事態を悪くするに相違ないのだ。
 ではどうしたらいいか。どうもできない。お高は、とっさに自問自答した。
 磯五が、例の油のような声でいっていた。
「とにかく、おせい様にいらぬことをいわねえようにしてもらおうと思って、おせい様のとこから帰るとすぐ、その足でここへ来たのだ。若松屋が、おせい様の金のことで四苦八苦していようが、いまいが、そんなことはおれの知ったことじゃない。おれはただ、おめえを、このことから手を引いたほうが利口だと納得させれあいいんだ。わかってくれたな」
「わかりませんよ。ちっともわかりませんよ。決して手を引きませんから、そのおつもりでいてくださいよ」
 叫ぶようにいったお高だ。それには、泣き声のようなものがまじっていた。色のないくちびるを歯がかんで歯のあとがついているのだ。
 お高は、蒼《あお》い顔をして、たち上がっていた。
「お前さまのようなお人、もうもう顔を見るのもいやでございます。せいぜいおせい様なり、あの急ごしらえの妹さんのお駒とかいう女《ひと》なり、そのほか何人何十人の女でも、手腕《うで》いっぱいにおだましなすったがおよろしゅうございましょう。女をおつくりあそばすのは、殿方の御器量と申すことでございますからねえ。ほんとに、磯屋五兵衛さまは、見上げたお腕前でいらっしゃいますよ。ごめんくださいまし」
 お高は、ちょっと裳《もすそ》をからげて、草を分けて歩き出した。白い足に、狐《きつね》いろに霜枯れのした草の葉がじゃれついて、やるまいとするようにからんだ。本堂の屋根を、筑波颪《つくばおろし》がおどり越えてきた。周囲の老松と老杉のむれが、ごうごうと喚声をあげた。うす陽のかげがふるえた。冴《さ》えかえる寒気だ。
 磯五は、衣かけの松のその衣かけの枝に、うしろざまに両肘をあずけてもたれかかったまま、立ち去ってゆくお高を見ていた。お高は、立ちどまって、腰をまげて、風にあおられる着物を押えていた。風を持てあまして、くるりと向きをかえた。磯五のほうを向いたのだ。磯五は、顎《あご》を引いて、えくぼを深くしながら、お高を見ていた。
 お高は、頭髪《かみのけ》が顔へかかってきてしようがないので、それをもかきあげた。そういう乱れたところを、まじまじと男に見られるのがいやだったので、ついにっこり笑ってしまった。てれかくしに笑ったのだが、磯五も、すぐに笑いかえした。
「高音、そうけんけんいわずと、ここへ帰って来なさい。まだ、話があるんだ」
 風が、その離れたところから、お高の声を運んできた。
「そのおはなしというのは知っていますよ。わたしはお駒さんではありませんからねえ。お前さまが勝つかわたしが勝つか、これからは、はっきり敵味方に別れて、智恵くらべをしましょうよ。お前さまが勝てば、わたしが負けるのでございますし、わたしが勝てば、お前さまが負けるのですよ」
「そういうことになりますかな」
「そうでございますよ」
「何をわかりきったことをいうのだ。おい、高音、こっちへ来な」
 磯五の顔が急に動物的にゆがんできた。お高は、磯五が何を考えているのかわかった。ふと磯五に惹《ひ》かれるものが、お高の身内にちらとひらめいた。それは、忘れていた磯五であった。お高は、たぐり寄せられるように、磯五のほうへ引っ返しかけた。そこへ強い風が吹いたので、お高は、風に押されて、ころがるように、よろよろと意外に磯五の近くまで来てしまった。
 磯五は衣かけの松をくぐって、むこう側へ出ていた。そこは、樹《き》にかこまれて、どこからも見えないところであった。磯五は羽織を脱いで、ふわりと草の上にひろげていた。

      四

 それを見ると、お高は、はっとした。いそいで磯五に背中を向けて、風にさからって走り出した。うしろで何かいう磯五の声がしていた。ばらばらと衣かけの松を離れて、追っかけてくる気はいであった。お高は、口をあけて風をのんで、駈《か》けつづけた。夢中であった。
 樹のあいだを縫って逃げるので、いきなり眼のまえにあらわれる立ち木を、すばやくかわすのが大変であった。お高がその樹々のあいだをすり抜けるときは、踊りの手ぶりのように見えた。すぐうしろに、磯五のあし音が迫ってきているような気がした。何度も、声をあげようかと思った。
 実朝公の碑のまえから、もと来た参詣みちへころび出たところで、お高は精がつきて、地面へくずれようとした。話しながら通りかかっていた二人づれがあった。左右から手を伸ばして、お高をささえてくれた。
「ほう。お前は、さっきの若松屋の人ではないか。こんなところを駈けまわって、何をしているのです」
 龍造寺主計が、面白そうにいった。ひとりは、龍造寺主計で、もう一人は、一空和尚であった。一空和尚は、まるい顔に、仕つけ糸のような細い眼を笑わせていた。でっぷりしたからだを、つんつるてんの衣で包んでる。
 いつも若者のように元気な老僧だ。まっ赤な顔をして、笑ってばかりいるのだ。馬鹿みたいだが、たいへんに悟りをひらいた坊さまだということだ。ころもの袖《そで》をほらほらとゆすぶって、大きな口を空へむけて、笑った。
「兎《うさぎ》狩りでも思いつかれたかな」
 そして、手をあげて、すこし離れた箇所《かしょ》を指さした。そこには、風雨にさらされて字の読めなくなった禁札が建っていた。御門内にてとんぼ獲《と》ることならんぞよ、と大きく書かれてあった。
「あれ
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