い顔をした。
「いいえ。旦那様はお眼がおわるいので筆役のようなことをいたしておりますものでございます」
「ほう、眼が悪い。それは御不自由な」
 龍造寺主計は、眉《まゆ》をよせた。彼は、心から気の毒に思ったのだ。そういうふうに、すぐ人に同情したり、他人のことを心配したりする男なのだ。
 しばらく黙っていた。やがて、いった。
「いずれ戻らるることであろう。待ちましょう」
「はい。御迷惑でございませんければ、どうぞお待ちなすってくださいまし」
「うむ、待とう。が、考えてみると、待って、会ってみたところで、しようがないかもしれないのだ」
「はい。でも、それは、どういうわけでございますか」
「ひとつ、あんたにだけでも、聞いてもらおうか」
「はい。うかがわせていただきますでございます」
「まあ、おはいり。こっちへおはいり」
「いえ、こちらで結構でございます」
「さようか。おれは、旅をしておる者だ」
「はい」
「旅をしておると、さまざまな人間に会う。いやでもあうぞ」
「はい」
「その旅で一度会うたことのある人間を、いま、この江戸で、さがし出したいと思うのだ。むりかな」
「あら、いえ。ちっともごむりなことはございますまい」
「まあ、聞きたまえ。ひとつ、聞かせてやろう。剣を弾じて、うたうのだ」

      六

 馮驩《ひょうかん》その剣を弾じてうたう。と、口ずさみながら、龍造寺主計は、うしろざまに手をのばして、まくらにしていた長刀を、とりあげた。お高が、ぎょっとしているうちに、すうと抜いた。お高は、あっと小さく叫んで、思わず膝を上げようとした。
 そのとき、龍造寺主計の歌声がしていた。それは、詩吟のようでもあり、長歌のようでもあり、俗謡のようでもあった。おそらく、彼自身の独特の調《しらべ》なのであろう。不可思議な節まわしで、はじめは低く、お高があっけにとられているうちに、だんだん高くなっていった。
「今日《こんにち》、鬢糸《びんし》、禅榻畔《ぜんとうはん》、茶煙軽※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《さえんけいよう》、落花《らっか》の風――」
 それは、杜牧《とぼく》の詩であった。朗々たる声だ。その朗々たる声で、うたいながら龍造寺主計は、奇妙な楽を奏しているのであった。彼は、琵琶師《びわし》が琵琶を弾ずるときのように、長剣を、きっさきを上に、膝のうえに斜めにかまえて、声を合わせて、左手の爪《つめ》で刀刃《とうじん》をはじくのである。また、ときとして、こぶしをつくって、刀身のあちこちを、かるく打ったのである。
 すると爪にはじかれたうす刃は、かすかに、微妙なひびきをつたえる。こぶしでたたかれた刀身は、その箇所《かしょ》によって、ふとく細く震動して、単調なようで複雑な、複雑なようで単調の音波を、空《くう》へむかって発するのだった。それを、龍造寺主計は、早く、おそく、強く、よわく、上に、下に、いろいろに、刀身を握ったり、指をかけたりして、たくみに調節しているのである。
 龍造寺主計は、そうして文字どおりに、剣を弾じているのだった。剣は、打々《ていてい》と、錚々《しょうしょう》と、きつきつと、あるいはむせぶがごとく、あるいは訴うるがごとく、あるいは放笑するがごとく、あるいは流るるがごとく、立派に、弾奏の役目をつとめているのである。この、龍造寺主計の刀は、ただ非常に薄いばかりでなく、何か特別のつくりででもあるのであろうか。
 龍造寺主計は、はじきながら、打ちながら、刀身の上下を押えて、震幅を加減し、うっとりと眼をつぶってまた歌い出していた。
「きんらい酒にあてられて、起《き》つねにおそし。臥《ふ》して南山《なんざん》を見て、旧詩をあらたむ」
 お高は、笑いだしていた。
「ほんとうに、結構でございます」
 龍造寺主計は、かたなの爪《つま》びきをつづけながら、また口をひらいた。こんども詩《うた》かと思うと、今度は、ことばであった。
「若松屋惣七どのはたずね人の助力など、なさらぬかな」
「それは、なさらないことは、ございませんが、どういう筋あいでございましょうか」
「ぜひわたしに手をかして、この江戸で、人をひとりさがし出してもらいたいのだ」
「さようでございますか。お身内の方でも、行方知れずになったのでございますか」
「いや。さようなわけではござらぬ。さがし出して、この刀に、血塗らねばならぬやつなのだ」
「はい。そうしますと、かたき討ちでございますか」
「仇敵《かたき》うち――といえば、かたきうちだが、かたき討ちでもない」
 このやりとりのあいだも、龍造寺主計は、つるぎのつま弾きをやめないのだ。伴奏入りの会話なのだ。
「すると、どういうことなのでございましょうか」
「人殺しをした者です」
「それでは、御公儀へ、御訴人《ごそにん》なすったほうが、およろしゅうございましょう」
「いやいや、公儀へ訴え出ても、むだだ。取りあげにならぬことは、わかっている。その者は、やいばで人を斬ったのでも、毒を盛って殺したのでもないのだ。わたしが、めぐりあわぬことには、そやつに、罰の下りようはないのだ」
 お高は、相手の力づよいことばに、何となく、こころよい戦慄《せんりつ》を感じた。龍造寺主計の大まかな顔がゆったりと笑っていた。お高は、ふと若松屋惣七のことを思いうかべた。同時に、磯五のことが、あたまにきた。そして、若松屋惣七や、この、刀をひいている変わったおさむらいにくらべて、磯五は、虫《むし》けらのなかの虫けらであると思った。
 龍造寺主計は、何ごとか思いついたらしい。刀をおいた彼は、無器用な手つきで、ふところをさぐって、はだの脂《あぶら》を吸って黒く光っている、胴巻きをとり出した。胴まきは、ずっしりと重そうに、ふくらんでいた。龍造寺主計は、その中から、小判をつかみ出していた。それは、ざっと十両であった。
「忘れるところであった。江戸へ参った記念に、何かためになるところへ、この金子《きんす》をおさめたいと思うのだが――このへんに、子供はおらぬかな」
「子供衆でございますか。子供衆ならこのおもての金剛寺というお寺に、たくさんおりますでございますよ。あそこには、一空和尚《いっくうおしょう》というえらい坊さんがいらしって、御自分の坊に、この界隈《かいわい》のおこども衆をおおぜい集めて、学問を教えておいでになりますから」
「何という坊主だ」
「慧日山《けいにちざん》金剛寺の、一空和尚でございますよ」
「しからば、その坊主のもとへ、この金子を献じて参ろう。若松屋どのの帰りを待つあいだに、ちょっと行って来ましょう」
 龍造寺主計は、手の小判をちゃらちゃらいわせて、飄々《ひょうひょう》と[#「飄々《ひょうひょう》と」は底本では「飄《ひょう》、飄と」]たち上がっていた。


    衣懸《きぬかけ》の松


      一

 龍造寺主計は、思い立つとすぐ、うらの金剛寺の一空和尚のところへ金を納めに出て行った。
 お高は、何という変わったお侍であろうと思った。そして、しじゅう近所の子供を集めて、子供たちといっしょに遊びながら学問を教えている、あの一空和尚のでっぷり肥《ふと》った。のんきそうな顔を思い浮かべた。あれでこれから春秋《しゅんじゅう》の畳がえをしたり、新入りの子供のために机を買ってやったりできるから、和尚もよろこぶだろうと思った。和尚は、俗姓を柘植《つげ》という人であることを、お高は聞いたことがあった。
 お高はふとそれを思い出して、不思議な気がした。お高の父は、深川の古石場《ふるいしば》に住んでいた御家人だったが、母は、柘植という町医の娘であった。あまりない苗字《みょうじ》なので、一空和尚は、母方の何かに当たるのではないかと、ちょっとそんな気がした。
 が、そんな気がしただけで、すぐほかの考えごとにまぎれてしまった。
 龍造寺主計という人物には、驚かされたけれど、江戸で、ある人間をさがし出して罰を加えるのだといった彼のことばには、お高は、たいして興味を感じていなかった。おおかた好きな女でもひどいことをした男があって恨みをいだいているようなことであろうと思った。
 若松屋惣七は、どこへ行ったのか、まだ帰って来なかった。
 お高は、名だけにしろ良人《おっと》となっている磯五と、ほんとうの良人のように思っている若松屋様とにはさまれている、今の自分の立場を考えてぞっとした。磯五と若松屋の抗争《あらそい》が、音もなく燃えさかる火のようなものに思えて、お高は、じぶんのからだがじりじり焼けてゆくような気がした。
 龍造寺主計と対坐していたときのまま、敷居近くにすわって、ぼんやり考えこんでいた。
 おもての金剛寺坂を、何かうたいながら、三味線をひいて行く、男と女の声がしていた。お高は、それを聞いて、流しの芸人夫婦を想描した。その雨をも風をも分け合っているすがたをお高はうらやましく感じた。何もかも知りあい話しあって、この世の中の重荷をいっしょにかついで行く相手のある人が、いちばんしあわせなのだと思った。
 磯五のことが、心に浮かんだ。磯五という人は、女の口に口を当てて、誠実《まこと》を吸い取りながら、心で他の女のことを考えている、恐ろしい人だと思った。自分がそれに気がつかなかったように、いまおせい様はそれに気がつかないでいるのだ。
 おせい様ばかりではない。あの妹に化けているお駒という女も、すっかり磯五のものになっているのだろうが、磯五の人柄には気がつかずに、女のほうから打ち込んでいるに相違ないのだ。お高は、磯五が、女の毒にあてられてからだがきかなくなればいいと思った。
 そんなことより、お高としては、若松屋惣七をこの急場から、救いさえすればいいのだ。それには、どうしたらいいか。若松屋惣七は、まだあのおせい様の手紙を見ないのだから、おせい様が矢のように金の督促をするかげに、磯屋五兵衛が糸を引いていることは知らないのである。
 これだけは知らせたくないと思って、お高は、こんなに苦心をしているのだが、ああしておせい様のほうが、だめになった以上、今度は、磯五ひとりに会って、まごころをこめて頼むよりほかはあるまい。まごころは必ず人を打って、人を動かすはずである。磯五とて、人間には相違ないのだから、ことによったら理解をして、おせい様を通して若松屋さまをいじめることを思いとまってくれるかもしれない。いや、きっと思いとまらせてみせる。
 とお高が、頼みにならないことを頼みにして、やっと自分を励ましているときに、庭の草を踏んで来る跫音《あしおと》がした。滝蔵だ。
「旦那は、まだお帰りがねえようだが、おそいことですね」
「どちらへおまわりになったのか、わたしにも心あたりがないのですよ」
「それはそうと、いまどこかの守《もり》っ娘《こ》が使いに来ているのです。誰か、男の人に頼まれて、お前様を迎えに来たとのことで、裏門に立って待っているので」
「おや、いやな話でございますねえ。わたしは男の人に呼び出されるような覚えはありませんよ」
「わっしもそう思って、めったなことがねえように断わったのですが、ちょっと帰って、またすぐ同じ口上をいって来るのです。二度も三度も来るのです」
「いやですよ。断わってくださいよ」
「何度断わっても、来てしようがねえのです」
「人聞きが悪いじゃあありませんか。何かわたしに、まともに来られない男の相識《しりあい》でもあるようで――誰でしょう、用があったら、自分で来たらいいじゃないの、ねえ」
「そうですよ。金剛寺さんの実朝様のお墓の前に待っているというのですよ」
 金剛寺と聞いて、お高は、ことによると今出て行ったお侍ではないかと、思った。あの変人が、何をまた思いついて、子守《こもり》をなぞ使いに、そんなことをいわせてよこしたのだろう――。
「行ってみようかしら」
「そうですか。守っ娘が待っているのです」
「行ってみようよ」
 お高はたち上がった。滝蔵が、心配そうな顔をした。
「あっしが、そっと後をつけて行ってもようがすよ」
「大丈夫ですよ。あそこは、参詣《さんけい》の人も多い
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