せて、まあまあと手で制して、ぴったりおせい様のそばへ行ってすわった。おせい様は、娘のようにはじらいをふくんだ眼で、だまって磯五をみつめた。磯五が、なめらかな声で、いった。
「すこしおそくなりましたので、おせい様は、怒っていらっしゃる」
「いいえ、おこってなんぞおりませんわ。お駒さまはどうなさいました」
「店へ帰って、よくきいてみました。驚きました。あのことはほんとうです」
「ほんとう? ほんとうといいますと、あの、お民さんのおっしゃったことは、みんなほんとうなのでございますか」
「いいえ、みんなではありません。みんなほんとうのことでは、わたしの妹が、泥棒をしたことになるではありませんか。それではあんまりですよ、おせい様。そんなことをおっしゃると、五兵衛は、この可愛いおせい様を、お恨み申さなければなりませんよ」
「あれ、いやでございますよ、つめったりなすっては。ですから、早く、すっかり聞かせて、安心させてくださいましよ」
「すっかりお話しします。五兵衛は、おせい様には、何でも申し上げるのですから」
「そうですよ。それはよく知っていますよ」
「わたしもはじめて聞いたのですが、おせい様、お駒は、可哀そうなやつでございます。わたしの心がらから、おんば日傘《ひがさ》で育ったあいつにまで、えらい苦労をかけました。わたしが京阪《かみがた》のほうに行っているあいだあいつを、この江戸に、ひとりで残しておいたものです。で、まあ、早くいえば口すぎに困ったのでしょう――」
「あの、いたいけなお駒さんがねえ。まあ、おかわいそうに。聞いただけで、おせいは、泪《なみだ》がこぼれますよ」
「はい。そうおっしゃってくださるのは、おせい様だけです。わたしも、きょうというきょうだけは、男泣きに泣かされました――それで、あいつも、背に腹はかえられず、素性をかくして、下女奉公とまで身を落としたのだそうです」
「その住みこみなすった先が、吉田屋さんだったのですねえ。あそこは、大店で、人の住まいが荒そうですし、それにあの、お民さんというお人が、気はいい人なのですけれど、ああいうしゃきしゃきしたお人でございますから、お駒さまも、どんなつらい目をみなすったことか、お察しできますでございますよ」
「はい。それはもう、朝から晩まで、つらいことだらけだったそうで、それに、もともと下女に出る生まれではないものですから、いっそう骨身にこたえて、そのうえ氏育ちは、争われませんもので、本人はそのつもりでなくても、やれ、お上品ぶっているとか、いやにお高くとまっているとか、朋輩《ほうばい》衆と、ことごとにそりが合いません。
いじめられ通しで、泣きのなみだで、それでもお主《ぬし》大事につとめておりますと、どうでしょう。あげくの果ては、あろうことか、あるまいことか、女中どもが寄ってたかって、お駒が、何か御主人のものを盗《と》ったとか、とんでもない濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせて、そのために、お仕着せまで取り上げられて、ほうり出されたのだそうです。
これもみんな、ほかに身寄り葉よりもない、たった一人の妹を、うっちゃっておく気はなくても、まあ、うっちゃっておいた、わたしの罪でございます。さっきこの話を、お駒の口から聞いて、兄さん、わたしゃくやしい、といわれましたときは、すまない、お駒、許してくれ、このとおりだと、思わず、このやくざな兄貴のわたしが、お駒のまえに下りましたよ」
四
「ほんとにねえ」おせい様は、しとやかに眼をぬぐった。
「いいえ、ですけれど、そんな馬鹿なことって、ありませんよ。これから、一っぱしり藁店へ出かけて行って、お民さんに談じこんでやりましょうよ」
たちかけるのである。磯五は、あわてた。
「いけません。そんなことをなすっては、いけません。何といっても、お駒が、吉田屋さんへ奉公に上がっていたことのあるのは、事実ですし、それに、過ぎ去ったことではあり、いまとなっては、反証《あかし》の立てようのないことですから――」
「それもそうですねえ。それでは、あの人が、伊万里とかから帰ってきてから、会って、よくいいましょうよ」
「わたしが、三年ぶりに江戸へ舞い戻りましたときは、お駒は、もとの磯屋さんに奉公しながら、仕込みのこつ[#「こつ」に傍点]やなどを呑みこもうと、それとなく見ておりました。おかげをもちまして、わたしが磯屋五兵衛となりましたこんにち、あれの、そのときの下地が、たいそう役に立っているわけでございます」
「ほんとに、あなたといい、お駒さまといい、このおふたりの御兄妹ほど、そろいもそろって、世の中のあら浪《なみ》にもまれたお方は、ござんすまいねえ」
「何だか、わたしも、そんな気がいたしますよ。ふり返ってみますと、生まれてから、おせい様にお眼にかかるまでは、長いながい山みちをあえぎあえぎ登ってきたのだと、しきりに、そんな気がいたします」
磯五は、膝のうえに両手をさすって、うつむいてそういった。おせい様が、ほっと熱い息をした。それは、羽毛《はね》のかたまりのように、やわらかく磯五の頬に当たって、散った。
おせい様は、わきを向いて、ほかのことをいった。感情の張り切った声が、かすれて、ふるえているのだ。
「こんど、お駒さんをここへお招《よ》びして、きょうのうめ合わせに、三人で御馳走《ごちそう》をいただきましょうよ。このごろ、いい料理番《いたば》が来ているのですよ。庖丁《ほうちょう》からお配膳《はいぜん》まで、ひとりでしないと気のすまない、面白いお爺《じい》さんでございますよ」
磯五の顔が、おせい様の顔に、寄って行った。おせい様の胸に、すこし残っている火がいま、おせい様の眼から、燃えぬけているに相違なかった。その、ほらほらと燃えあがる眼に、磯五の白い顔が大きくうつった。この、涼しい瞳《め》をしたやさ男が、そっくりじぶんのものなのだと思うと、おせい様は、胴ぶるいがした。
中庭のむこうの土蔵の影が、ながく伸びてきていて、座敷のなかは、うす暗かった。磯五は、起って行って障子をしめ切って来た。
お高は、若松屋惣七が、まだ帰ってきていなければいいと思って、いそいで帰宅《かえ》った。お高は、若松屋惣七へきた手紙のことで、惣七のためとはいえ、勝手に策動して、しかも、失敗したので、こころが重かった。どうしていいか、わからなかった。
じぶんがおせい様と話しているところへ、磯五と、あのお駒という女がやって来たときに、思い切って、磯五が自分の良人であること、そして、お駒は、磯五の妹でも何でもないことをいってのけることができたら、両方の面皮をいっしょにはいで、それがいちばんよかったのだが、お高は、どうしてもそれができなかったのだが。
その前から、お高があんなにいったのに、おせい様が、ちっとも信じてくれようとしないから、お高に、その力が出なかったのだ。お高が、身分をうちあけて、生きた証拠を示さない以上、おせい様は、磯五のいうことを真に受けて、お高の言には、はじめから一顧をもあたえないにきまっている。だが、お高は、じぶんが磯五の妻であると、おせい様に知られることは恥ずかしくてたまらなかった。とてもいえないのだ。
おせい様と磯五のあいだが、ゆくところまでいっていることは、お高にも、想像できた。そのおせい様から、そこにそういう女房がいるのに、その夫は、わたしとこういうことになっていますという眼で見られることは、お高の、女としての誇りが耐えられなかった。このへんのこころもちを、磯五は、承知しているらしいのである。承知して、お高の口からばれることはないと、たかをくくっているに相違ないのだ。お高は、磯五ひとりに会って、おせい様を迷わせて、若松屋さまからお金を取り立てて巻きあげることだけは、よしてもらおうと思った。
お高は、出がけに帯のあいだへはさんで行った、おせい様の手紙を思い出した。早く現金をそろえて、日本橋式部小路の磯屋五兵衛へまわすようにとある、若松屋惣七にあてた督促状だ。お高は、帯のあいだへ手をやってみた。手紙は、そこにあった。その手紙を、どうしようかと思った。若松屋惣七さまに渡したものかどうかと迷った。
若松屋さまには見せたくない。見せられないと思ったが、考えてみると、この手紙ひとつじぶんの手で握りつぶしたところで、どうなるものでもないと気がついた。第一、若松屋惣七に、何ごとでも隠し立てしておくのが、お高は、くるしかった。もうお帰りになっていることであろうから、いっそすぐお眼にかけようと決心した。
五
お高は、うら口からはいって行った。そこだけは、雲のきれ目から、うす陽がさしていた。佐吉と滝蔵が、傘と足駄《あしだ》をならべて、ほしていた。炭屋が来ていた。炭屋は、切った炭に、井戸から水をくんで行って、かけていた。
誰も、お高がかえってきたことに、気がつかないようすだ。みんなで大声に、たれかのうわさをしていた。旦那やじぶんのうわさをしているのだと、気まずい思いをさせると思って、お高は、うら庭へはいるとすぐ、声をかけた。
「みなさん、よくお精が出ますよ」
ふたりの下僕《おとこしゅ》と炭屋は、びっくりして挨拶した。
「おかえんなさい」
「旦那さまは?」
「まだお帰りではねえのです。半刻《はんとき》ほど前から、お客さんが見えて、待っていなさるけれど」
「あれ、お客さまというのは、どなた」
「名はいわねえのです。おっかねえさむれえですよ」
お高は、若松屋惣七の武士時代の友だちがたずねてきたのだろうと思って、不思議に思わなかった。炭屋の若い衆へ、笑いかけた。
「そうですよ。水をかけておいてくださいよ。火もちがちがいますからねえ」
「火もちがちがいますよ」
「粉炭は、便利ですから、いつもの笊《ざる》へあつめといてくださいよ」
「こな炭は、便利でさ」
炭屋の若い者は、おなじことを繰りかえしていった。お高は、笑いながら、[#「笑いながら、」は底本では「笑いなが、ら」]家のなかへはいった。ちょっと自分の部屋へ寄って、顔をなおしてから、客が待っているという、中の間の座敷へ行った。そこは、先日、磯五がはじめてあらわれて、このごろのさわぎの発端となった、あの座敷だった。
お高が、縁側を進んで行って、敷居ぎわに手をつくと、そっちへ足を向けて、大の字なりに寝ころんでいた男が、むっくり起き上がって、あぐらをかいた。それは、龍造寺主計《りゅうぞうじかずえ》であった。
お高は、びっくりした。龍造寺主計も、不意に現われたお高を、まぶしそうにながめて、つづけさまに、眼《ま》ばたきをした。伸びをした。
「つい眠《ね》たものとみえます。御主人が、おかえりになったのですか」
「いいえ、若松屋さまは、まだおかえりになりませんでございますけれど、御用は、わたくしが、伺っておきますように、しじゅういいつかっておりますでございます。わたくしも、ちょっと他行《たぎょう》をいたしまして、ただいま戻りましたところでございます。失礼をいたしました」
いいながら、お高は、龍造寺主計を観察した。龍造寺主計は、笠《かさ》と草鞋《わらじ》をとっただけで、旅装束のままである。はだしの指のあいだに、土のような真っ黒なごみがたまっているのが見える。枕《まくら》にしていたらしく、おかしいほど長い、無反《むそ》りの刀が、あたまのほうに置いてあるのだ。汗と陽のにおいが、お高の鼻へただよってくるような気がした。
お高が、江戸で見慣れている武士とは、全然違った型なのだ。陽にやけた顔に、あばたがいっぱい浮き出ているのだが、お高は、何だか、男らしい立派な人だと思った。
先方が口を切るのを、お高は待った。龍造寺主計が、いい出していた。ふとい短い頸《くび》から、うがいをするように出てくる声だ。
「留守に上がりこんで、すみませぬ。先ほど江戸へ着いたばかりだ。さっそく若松屋惣七どのにお眼にかかりたいと存じて、推参いたした」
「あの、旦那さまのおしりあいの方でいらっしゃいましょうか」
「あんたは、こちらのお内儀かな?」
お高は、あか
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