いって、畳に突っ伏して、泣きじゃくっている。おせい様は、磯五の気を害することを専心おそれて、浪《なみ》打っているお駒の背を、一生懸命になでて、慰めていた。が、お駒は、ほんとは泣いているのではなかった。そうやって顔をかくして、上手《じょうず》にごまかして、笑っていたのである。お民は、決然と席をたって、帰りかけていた。
「おせい様、わたしは、おまえさまの腑甲斐《ふがい》ないのが、歯がゆくてたまりませんよ。とにかく、あしたの朝早く、伊万里のほうへ行きますからね、また帰ったら、寄せていただきますよ。そのときまでには、このことも、はっきりわかっていることだろうと思いますよ」
おせい様をふり切るようにして、お民は、そそくさと帰って行った。
龍造寺主計《りゅうぞうじかずえ》が、東海道から江戸へはいったのは、この、お民が、おせい様の家から、そそくさと帰ったころだった。
龍造寺主計は、どこの産ともわからない、諸国放浪の浪人だ。年のころは、三十五、六であろう。中肉中背のからだを、風雨と汗でよごれた旅装束につつんでいるのだ。ばかに長い刀をさしているせいか、武骨《ぶこつ》で豪放に見えるのだが、人物も、武骨で豪放なのだろう。精悍《せいかん》な相貌《そうぼう》をしている。顔ぜんたい、大あばただ。
品川《しながわ》まで来ると、八《や》ツ山下《やました》の、ちょっと海の見えるところに、掛け茶屋が出ているから、龍造寺主計は、そのまえに立ちどまって、
「おい」
「いらっしゃいまし。おかけなさいまし」
「そうしてはおられん。つかぬことをきくようだが、江戸で人をさがすのに、何かよい工夫《くふう》はないかな。だれか顔の広い人物があったら、教示にあずかりたい」
仇人《きゅうじん》
一
吉田屋のお民が、お駒を、お目見得泥棒とののしって、席をけたてるようにしてかえっていったあとだ。磯五は、うつ伏しているお駒の背に手をかけて、おせい様にいった。
「ひとまず、これをつれて帰って、また参ります」
おせい様は、お民のことばで、磯五が感情を害しているに相違ないと、それをおそれているのだ。
「お駒さんは、気が顛倒《てんとう》していらっしゃるのですよ。かわいそうに、誰でもあんなことをいわれれば、気が顛倒しますよ。お駒さんも磯屋さんも、気にかけないでくださいましよ。あのお民さんという人は、口がわるいのが病《やまい》で、人にいやがられているのでございますからねえ、わたしからこんなにあやまっているのでございますから――」
おせい様は、磯五のきげんを直そうとして、おろおろ声だ。磯五といっしょに、お駒のせなかをさすって、抱き起こした。お駒は、たもとで顔を隠していた。憤然とさきに立って部屋を出ながら、磯五がおせい様にいやみをいっていた。
「おかげで、いい恥をかきましたよ。人の妹をつかまえて下女奉公に出たことがあるの、おまけにぬすっとうを働いたの何のと、あの吉田屋のお内儀には、いずれとっくり[#「とっくり」に傍点]この返礼をするつもりです」
どなるような大声だから、おせい様はいっそうみじめに狼狽して、まだ泣きじゃくっているお駒を抱かんばかりにして玄関まで送り出た。履物をはきながら、磯五がいった。
「いたって気の弱い娘《こ》ですから、ああいうひどいことをいわれると、こたえます」
「そうでございますよ」おせい様は、男の気を直そうと、一生懸命だ。「おとなしいお方だけに、くやしさも一しおでございますよ、ねえ――それはそうと、お前さま、ほんとに戻ってくるのでしょうね。待っていますからねえ」
「はい。お駒を店へ送り届けて、その足で引っかえしてまいります」
急に赧い顔をしたおせい様から、残っている色気が発散した。それは夕やけのようにはかないものだ。
「だまかすとききませんよ」
おせい様は、帰って行くふたりを、心配そうに見送った。いつまでも上がり口に立っていて、奥へはいらなかった。
お駒は、まだ顔をおおったまま磯五に注意されても、おせい様に挨拶もしないで、出て来た。
拝領町屋の横町をまがって、雑賀屋の寮が見えなくなると、磯五はぐいとお駒ちゃんの腕を握った。磯五は、どういうわけか、このお駒のことを、ふたりきりでいるときは、お駒ちゃんと、ちゃんづけにして呼ぶ習慣なのだ。
「ほんとか、あのことは」
お駒ちゃんは、長い袂《たもと》をぴらしゃらさせて、くっくっと咽喉で笑っているのだ。
「みんなほんとですよ。ちょいと吉田屋へ住みこんで小さな仕事をしたのが、へまをやって、ばれたことがあるんですよ。いやなところへ、いやなやつが出て来たもんだねえ」
磯五は、ひとごとのようにいうお駒ちゃんの顔を、横眼ににらんで、ならんであるいた。おしろい焼けのしたお駒ちゃんの顔は、ことに頸《くび》のあたりが、ひどくすさんで見えるのだ。こいつを妹に仕立てたのはてんから間違いであったかなと、磯五は思った。そう思って、うなだれて、考えこんで行くと、身幅をせまく仕立てたお駒ちゃんの裾から、無遠慮に歩くお駒ちゃんの白い脚《あし》が、ほらりほらりと見えるのだ。
磯五はおせい様のことも、お高のことも、いまの厄介な問題もどうにかなるであろうと思った。下素《げす》な笑いが、磯五の顔にひろがりかけていた。その笑いを、お駒ちゃんが見つけた。
「ほんとに、おかしいったらありゃしないよ。でも、底が割れそうで、お前さん心配じゃないかい」
「なに、心配することはねえのさ。だが、あのとき泣くなんざあ、てめえが馬鹿だ」
「あれ、誰も泣きはしないよ。笑っていたのだよ」
「なおいけねえや」
「だって、おかしいじゃないか。あの、吉田屋のお婆《ばあ》さんのあきれ顔を見たら、あたしゃどうにもがまんができなくて、ふきだしてしまったのだもの」
「殊勝らしく、泣いているように見えたから、いいようなものの、それが、てめえのかるはずみというものだ」
「悪かったらごめんなさいよ。だけどねえ、お前さんという人も、罪のふかい人だねえ、あのおせい様とかいう四十島田はお前さんにこれったけじゃあないか」お駒ちゃんは、歩きながら、じぶんの首へ手をやった。
「あんなに参っているとは、思わなかったよ。女同士だもの、眼いろでわからあね。嫉《や》けてくるよ」
「何をいやがる。それもこれも、てめえに楽をさせようためのいわば商売じゃあねえか。あだやおろそかには思うめえぞ」
「はいはい。まことにありがとうございます――お前さんは、口がうまいからねえ。かなわないよ」
磯五とお駒ちゃんは、声をあわせて、笑った。そこは、御成街道《おなりかいどう》が広小路《ひろこうじ》にかわろうとする角《かど》であった。一方に、湯島天神《ゆしまてんじん》の裏門へ登る坂みちが延びていた。そこのところに、辻《つじ》待ちの駕籠屋《かごや》が、戸板をめぐらして、股火《またび》をしていた。そこから、二|梃《ちょう》拾って日本橋へ走らせた。いつのまにか、空気が寒くひき締まって、降雪《ゆき》を思わせていた。
二
品川の八つ山下の茶店のおやじは、ふと立ちどまった、旅によごれた浪人風の壮漢《おとこ》が、腰掛けに腰かけもしないで、いきなり、江戸で人を捜すのだが、誰か顔のひろい人はないかときくので、おどろいていた。
龍造寺主計という人は、こんなふうに、人を驚かしてばかりいるのだ。だから、人がおどろくのには、平気なのだ。
立ちどまったついでに、ぽんぽんからだの塵埃《ごみ》をはたきながら、
「貴様は、物|識《し》りらしい面《つら》をしておるからきくのだ。江戸において交際《つきあい》のひろい人物がひとり、至急に入要である。名をいえ」
茶店のおやじは、困ってしまった。きちがいかもしれないと思ったので、さからわないに限ると思った。
「物識りらしい面とは、こんな面がお眼にとまって恐れ入りましてございます。しかしお武家さま、江戸で、顔の広いお方と申しましても、どういうお方でございましょうか。侠客《おとこだて》の衆のようなお方でございましょうか」
「いや。町人仲間で、顔の売れている人物のところへたよって行きたいのだ」
「それはそれは。して、どのような御用でございましょうか、それによりましては、このおやじめが、どなたか思い出さないとも限りませんで、へえ。なにぶん、この掛け茶屋などと申す稼業《しょうばい》は、人の口が多うございまして、いろいろとまた、なが年小耳にはさんでおりまするで」
「よく申した。ぜひ一人思い出してくれい。用というのは、その人物を伝手《つて》にいたして、江戸で尋ね人をしようというのだ」
ははあ、仇敵討《かたきう》ちかな、とおやじは思ったが、あまり立ち入ったことをいうと、危険なような気がしたので、黙っていた。それに、かたきうちにしては、相手のようすに、どことなくのんきすぎるところが見えるのだ。
しかし、若いころから、仇敵をさがして全国を放浪して、山河のほこりにまみれて、もうどうでもよくなって、こうして江戸へはいって、申しわけに、その顔のひろい人に頼んで捜してもらいながら、自分は、こづかい銭をもらって、一生ぶらぶら遊ぼうという肚《はら》かもしれない。よくあるやつだ。じっさい、この香具師《やし》のように陽に焼けて、悪ずれのしたように見える、龍造寺主計には、そんなようなところが、見えるのだ。
おやじは、めったなところを教えては、迷惑をかけるかもしれないと思った。
「はい。人をおさがしなさる。そのお人は、どういうお方でございましょうか」
「よく、いろんなことをきくやつだな。まず、蠅《はえ》だ。蠅のようなやつだ」
「あの、蠅のようなお方――」
「そうだ。貴様は、汚物《おぶつ》のうえにたかる銀蠅《ぎんばえ》を、知っておるか」
「存じております」
「そのぎん蠅と同様に、しじゅう小判の集まるところにぶんぶんいうて飛んでおるやつだ」
おやじは、笑いだしていた。
「それはお武家さま、御無理でございますよ」
「なぜだ」
「なぜと申して、考えてもごろうじろ。きたないものに蠅がたかりますように、お金のあるところに人が集まるのは、当節の風《ふう》でございます。あなた様のようなことをおっしゃっては、江戸じゅうの人間が、みんな小判の蠅でございますよ。そのようなことは、人をおさがしなさいますうえに、ちっとも眼当てになりませんでございます」
おやじも、ひまなので、相手になっているのだが、これを聞くと、龍造寺主計はふわふわと鼻の穴から笑声を押し出して、
「なるほど。いっぽん参ったわい。貴様は、なかなか気骨があるぞ」
ひどく面白そうだ。おやじも、乗り出して来た。
「お武家さま、へっ、思いだしましたよ。ひとり、思い出しましたよ」
「そうか。思い出したか」
「思い出しましたよ――つまり、何でございましょう? ひろくお金を扱って、そのほうで、江戸のあきんど衆に顔の知れているお方、そういうお方が、御入要なんでございましょう?」
「そうだ、そうだ。そういう人物をたよって、行きたいのだ。その、貴様が思い出したというのは、名は何といい、いずくに住まっておるか」
「ようがす。そういうお方なら、江戸に有名なお方がございます。小石川でございます。小石川の上水端に金剛寺というお寺がございます」
「うむ。曹洞派《そうとうは》の禅林である。聞こえた名刹《めいさつ》だな」
「へえ。その金剛寺の裏手でございます」
「うむ」
「若松屋惣七さまとおっしゃるお方で、あのへんでおききになれば、すぐおわかりになりますでございます」
「さようか。かたじけない」
おやじのまえの腰掛けのうえに、ばらばらとたくさんの小|粒《つぶ》がおどった。龍造寺主計は、乞食浪人のように見えるのだ。が、龍造寺主計は、金を持っているのである。内実は、裕福なのだ。
三
磯五が、拝領町屋のおせい様の家へ引っかえしたときおせい様は、おなじ座敷にすわって、ぼんやり庭を見ていた。磯五がはいってくるのを見ると、いそいそ迎えに立とうとした。磯五はてかてか光る顔を笑わ
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