は、その女に見覚えがあった。
それは、あの、式部小路の磯屋のまえの空地《あきち》で磯五と立ち話しているところを、お高が、板囲いのあいだから隙見したことのある、女歌舞伎の太夫上がりのような、大柄な美しい女であった。磯五の妹に化けることを、お高が拒絶したので、磯五は、お高のかわりに、このお駒を妹に仕立てて来たに相違ないのである。
初対面のあいさつをしている。蛇《へび》の膚を聯想《れんそう》させるなめらかな磯五の声がしていた。
「きょうは、このお駒にもお近づきを願いかたがた、本人の口からお礼を申させようと思いましてね、急に思い立って、やって参りましたよ」
「御丁寧に、まあ、ほんとに、五兵衛さんのお妹さんだけあってお駒さんは、お美しいお方でいらっしゃいますこと」
「いつも兄をはじめ、商売のほうまで、いろいろと御厄介になりまして、ありがとうございます。それに、近いうちに、おめでたがございますそうで――」
磯五に劣らない、したたか者らしい声音である。おせい様は、おめでたといわれて、もじもじ磯五のほうを見て笑った。
「兄様が、せっかく親切にいってくださるものでございますから、こんなお婆《ばあ》さんも、そんな気になりましてねえ――それはそうと、あれほど大きなお店を、しめくくっていらっしゃるのは、なみたいていのことではございませんでしょうねえ」
「いいえ、わたくしなんど、ほんとに何もできませんのでございますけれど、さいわい兄が万事に眼を届かせてくれますので、どうやら――」
お駒は、一にも二にも磯五を兄々と立てて、すっかりその妹になりすましている。
ふと、おせい様は、気がついて、座敷のなかを見まわした。
「おや、高音さまとやらおっしゃる、お従妹さんがおいでになっているのでございます。つい今しがたまで、ここにすわっておいででございましたよ。はて、どこへいらしったのでございましょう」
お高は、思いきって、つぎの間から出て行った。じろりとすばやく、磯五をにらんだ。
「こちらで、お掛け物を拝見しておりましたのでございますよ」
磯五の顔を、蒼いおどろきと、怒りが、走りすぎた。が、声は、思いがけないところで、従妹にあったという、愉快な、意外さを示して、ほがらかにひびいた。
「おお、これは、高音か。相変わらず、どこへでも出かけてくるようだな」
「はい。用さえあれば、どこへでも出かけて、何でもいいますよ」
「ははは、相変わらず元気で、面白いことをいいます」
磯五は、すごい表情《かお》をして、お高をにらみ上げていた。お高は、平気なのだ。
「従妹とやらが、あまり元気では、お困りになることがございましょう。おあいにくさまみたようでございますねえ。面白くないことを、たんとしゃべり散らす従妹でございますからねえ」
「これ、お駒も来ておるのだ。長らく会わないが、覚えてはいるだろうな」
「これが、妹さんとかいう、お駒さんという女《ひと》でございますか。不思議でございますねえ。こんな人、見たこともございませんよ。妹さんがおありだということも、いまはじめて伺うことでございますよ」
「ははははは、いくつになっても、お前の茶目ぶりはなおらないとみえる。いよいよ面白い」
お高は、このうえ長居は無用と思った。おせい様にだけ、かるく挨拶して、座敷を出て、帰路についた。かみつくような、挑戦的な磯五の視線が、お高のうしろ姿を追っていた。お高も、出がけに磯五に、応戦的な一瞥《いちべつ》をかえした。
お高は、これで、磯五とすっかり敵になったことを知った。きょうから、あらためて、磯五という良人は、お高という妻の、正面の敵となったのだと、お高は思った。磯五も、そう思った。そしてそのあらそいは、ついに刃《やいば》に血を塗るところまで突き詰められなければならなかったのだ。
お高が、小婢《こおんな》に送られて、おせい様の玄関を出ようとしていると、入れ違いに、おせい様と同じ年配の、やはり裕福な商家のおかみらしい、粋《いき》なつくりの女が、おせい様を訪れて来た。
「まあ、吉田屋《よしだや》のお内儀さま、おめずらしい。さあ、どうぞ――」
小婢が、こましゃくれた口で、そういっていた。
六
おせい様とは大の仲よしの藁店《わらだな》の瀬戸物問屋吉田屋の内儀お民《たみ》だ、いつも来て、じぶんの家《うち》のように勝手を知っている家だ。案内も待たずに、奥へ通った。
藁店の吉田屋は、おもてにも、瀬戸物一式をならべて売っている古い店だが、それより、諸大名のやしきへ、屋根瓦《やねがわら》などを手広く納めているので有名な家である。お民は、そこの家つきの女房で、おせい様とは、雑賀屋の旦那がまだ生きているころから、芝居などは必ず誘いあわしてきた、したしい友達なのだ。
中庭にむかった小座敷では、おせい様と磯五とお駒のあいだに、これから、くつろいだはなしがはじまろうとしていた。磯五は、お高のことはいま話題に上《のぼ》さないほうがいいと考えて、しっきりなしにほかのことをいいだしていたが、心では、あのお高が何しにこのおせい様のところへやって来たのであろう、何を話して行ったのであろうと、それが、すくなからず気になっていた。
おせい様は、磯五の顔を見て、お高によって一時植えられた疑念など、けろりと忘れて、酔ったように上きげんなのだ。お茶を呼ぶつもりで若やいだ態度で手をたたいたりした。
その、手をたたく音を縁を進んでいたお民が聞いて、冗談好きのお民が、お茶屋の仲居をまねて、
「へえーい」
と長く引っぱって答えると、近いところで、うちの者でない人の声がしたので、おせい様は誰のいたずらであろうと、びっくりした。そこへお民が、あいそよくはいって行った。
「お呼びでございますか。というところでございますね。こんちは」
「あらあら、まあまあ、吉田屋のお民さんじゃあありませんか」
おせい様も、はしゃいだ声を出した。おせい様は、このお民に対してだけは、友達ずくに、すこし、ことばをくずすのだ。
「いやですよ。女中のまねなんぞしては、まあ、おはいりなさいよ。うちの人同様の人たちばかりですから、ちっとも構いませんよ」
お民は、にこやかに笑ってはいって来て、すわった。お民は、お店の女房らしい、渋い、美しい年増だ。ふところから、紙にはさんだ煙管《きせる》を取り出して、手あぶりの火で、一服つけた。そして、
「いえね、あした早く発《た》って、旦那といっしょに伊万里《いまり》のほうへ年例の仕込みにゆきますからね、ちょっとこの前を通ったついでに、しばらくのお別れに寄ってみましたのさ」
といいながら、なにげなくお駒のほうを見ると、あらと驚いたお民の手から、きせるが落ちた。
「おや! この人は――?」
ぽかんと口をあけて、お駒とおせい様を、比較するように見た。
お駒は、今お民がはいってきたときから、あおい顔をして、まごまごしていたのだ。おせい様が、吉田屋のお民さんじゃあありませんかといったときは、のけぞるほど、ぎっくりおどろいたようすで、あっと小さく叫んで、あわてて立ち上がろうとさえしたくらいだ。そこらへ、隠れでもするつもりだったのだろう。こまかくふるえ出したのを、磯五がきっと[#「きっと」に傍点]眼顔でしかりつけて、やっと押しとめておいたくらいだ。
それが、今こうしてお民の眼をまともに受けると、お駒は、まるで石になったようだ。つめたく固まって、口もきけないのだ。おせい様も、びっくりしたようすだ。あわてて、いった。
「このお方は、日本橋の磯屋五兵衛さんの妹さんで、お駒さんという人ですよ」
「え? 何ですって? 磯屋さんの妹のお駒さんという人ですって?」
お民は、叫ぶようにおせい様にいって、それから、くるりとお駒へ向き直った。
「何だい、この狂言は。いやだねえ。お前はお安《やす》じゃないか。間違いだなんて、いわせはしないよ。お前だって、わたしの顔をお忘れじゃああるまい」
おおぜい奉公人を使って、気の強いお民だ。正面から、お駒を見すえて、きめつけた。すると、不思議なことには、今のいままで、磯屋の店をひとりで切りまわしている、五兵衛の妹お駒として、すっかりおさまっていたお駒が、今もいうとおり、凍ったようになってしまったと思うと、こんどは、顔を、真っ赤に、というよりむらさきにして、たちまちへなへなと折れてしまいそうに見えた。
おせい様は、何やらいっこうわからないながらも、磯五の手まえをおそれて、いそいで、お民をたしなめにかかった。
「お民さん、何をいうのですね。お安などと、とんでもない間違いをしては、いけませんよ。お民さんがとんでもない人違いのことをいうものですから、お駒さんがあんなに困って真っ赤になっていなさるじゃありませんか」
お民は、お駒から、眼を離さずに、せせら笑った。
「おせい様こそ、ばかな間違いをしているのですよ。きっと何か、食わせものに引っかかっているのですよ。半年ほど[#「半年ほど」はママ]まえのことですが、わたしゃこのお安の顔は、忘れっこありませんよ。どこで見かけても、一眼でわかりますよ。おせい様、まあ、このお駒さんという人を、よく見てやってくださいよ。これは、お安ですよ。わたしに見つかったものだから、あんなにしょげているじゃありませんか。
このお安は、うちの下女だったのですよ。いいえ、下女に来て、二、三日お目見|得《え》をしているうちに、お店のお金やらわたしの着物やらを盗んで消えてしまった泥棒女ですよ。お目見得どろぼうですよ。ねえ、お安、お前は、きれいな顔をして、大それた女ですねえ」
七
狼狽《ろうばい》と混迷の極から、お駒は、急に立ちなおってきた。すっかりおちつきを取りもどして、しずかに、お民のほうへすわり直した。
「吉田屋さんのお内儀さんでいらっしゃいますか。何かわたしを、お安とかいう女と取りちがえていらっしゃるようでございますが、わたしは、いまおせい様がおっしゃいましたとおり、この、ここにおります日本橋式部小路の太物商、磯屋五兵衛の妹、駒でございます。
人ちがいもお愛嬌《あいきょう》かもしれませんが、ぬすっとう女だの、お目見得泥棒だことのと、おまちがいにきまっていますからこそ、こうして黙って聞いておりますものの、あんまりなおことばではございますまいか」
「まあ、あきれた。これ、お安、お前は、うちへ住みこんだときも、その口で、わたしをちょろりとだましたんだったね」
「何でございますと? わたしは、その、お安とやらではございません。磯屋の妹の――」
「はい。わかっておりますよ。磯屋の妹のお駒さんに化けこんで――」
「まだおっしゃる。もう一度、お安などとおっしゃると、承知いたしません」
「ええ、ええ、何度でもいいますとも。お安だからお安だというのに、何かさしつかえでもあるのですかね」
「なんてまあ、強情なんでしょう!」
お駒のようすに、だんだん伝法《でんぽう》なところが見えてくる。今に何をいい出して、地金《じがね》をあらわさないものでもないから、黙って見ていた磯五が、心配をはじめて、いそいで口をはさんだ。
「ええ、これは、吉田屋さまのお内儀でいらっしゃいますか。おうわさは、おせい様からも、しょっちゅう伺っております。手まえが、磯屋五兵衛でございます。ただいま伺いますと、何かとほうもないお人違いをなすっていらっしゃるようでございますが、まこと、これは手前の妹、駒でございまして、お話しのお安さんでもございませんければ、また、どちら様へも、奉公になぞ上がったことはありませんでございます。
もし強《た》って、そのお安とやらだとおっしゃるんでございましたら、失礼でございますが、何か証拠と申すようなものを、見せていただきたいのでございます。他人の空似というようなことも、往々《まま》あるためしでございますから――」
ただおろおろしていたおせい様も、これにいきおいを得て、種々口をそえて、お民に、その、間違いにきまっていることを、さとらせようとしている。
お駒は、くやしいと
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