じゅういらいらしている惣七である。
彼は、お高をどう思っているか。おどろいている。むかし、自分の心をとらえて、まだ離さないでいるあの女に、お高があまり似ているのに驚いているのだ。どうかした拍子に、人の顔などははっきり[#「はっきり」に傍点]見えることがある。そういうとき、お高の顔がよく見えると、惣七は、思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とするくらいだ。それほど似ている。と、惣七は思うのだ。
いまもそう思って、彼は、お高のほうへ眼を見ひらいている。
「きょうは、あちこち手紙を書かねばならぬ。だいぶたまった。ひとつ頼もうか」
「はい」
「まず大阪屋《おおさかや》へ書きましょう」
「はい」
「織り元から、この夏入れた品物の代を請求して来ているのだ。あそこはいつもこうです。毎年このごろに二、三本の催促状を書く。今度は、一本で済むように、すこし手きびしくいってやりましょう」
「はい」
惣七の冷たい声が、しばらく部屋に流れつづけた。巻き紙を走るお高の筆の音が、それを追う。
条理と礼儀をつくしたなかに、ちょいちょいすごさをのぞかせた文句が、お高の達筆によってきれいにまとめられた。
つづいて三つの手紙を片づけた。それぞれ文箱《ふばこ》に納めて、あて名を書いた紙をはり、使いのものに持たせてやるばかりにする。
「それから」と、惣七がいいかけていた。「最後に、こんな馬鹿げたのを一つ書いてもらおう。筆ついでだ。いや、着物を買い過ぎて、呉服屋へ借金のかさんだ女へ、その呉服屋に代わって、払いの強談《ごうだん》を持ちこんでやるのだが、愚かな女だ。首もまわらぬらしい」
若松屋は冷笑をうかべている。しばらくして語をつなぐ。
「日本橋《にほんばし》磯五《いそご》に頼まれて、麻布《あざぶ》十番の馬場屋敷《ばばやしき》住まい、高音《たかね》という女に書くのだ。すこし、おどしておきましょう」
ちょっと切って、すぐ糸を繰《く》るように文案が出てきた。
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一筆啓上つかまつり候《そうろう》。当方は若松屋惣七と申す貸金取り立て業のものにござ候。呉服太物商磯五よりおんもとさまへの貸方二百五十両のとりたてを任《まか》せられ候については、右貸金はすでに三年越しにて、最初内金五両お下げ渡しありたる後は、月延べ月延べにて何らの御挨拶《ごあいさつ》なく打ちすぎ参り候段、磯五とてもいたく迷惑いたしおり候ことお察し願い上げそろ。今回磯五になりかわり、当若松屋が御督促申しあげ候以上、もはや猶予のお申し出には応じ難く、一両日中に即金二百五十両お払いくだされたく、伏して願い上げ申し候。なおしかるべき御返答これなきときは、ただちに公事におよぶべき手配、当方において相ととのいおり候旨、念のため申し添え候。
[#ここで字下げ終わり]
四
「これで、すこしは驚くことであろう」
若松屋は、声をたてて笑う。面白くてたまらないといった、屈託のないわらい声である。それが、けむりか何ぞのように、眼に見えて、軒を逃げて、樹間に象眼《ぞうがん》された冬ぞらへ吸われていくような気がするのだ。
お高は、筆をおいて、ぼんやり戸外《そと》を見あげている。惣七が、いっていた。
「二百五十両も、衣裳《いしょう》を買いこむやつも、買い込むやつだが、貸すほうも、貸すほうだて。全く、笑わせる。女子《おなご》のなかには、度し難いのがおるものだな」
お高が、きいた。物思いから、急にさめたような声だ。
「あの、あて名は、麻布十番の馬場屋敷内、高音と申すのでござりますか」
「さよう。麻布十番の馬場屋敷居住、高音という女です、愚かなやつだ」
「はい」
「きょうは、手紙は、それでおしまいにしましょう」
「はい」
「疲れたであろう。大儀《たいぎ》大儀《たいぎ》。ゆっくり休息なされたがよい」
「はい」
「もうよい。あすまで用はない」
「はい」
「用がないと申したら、用はないのだ」惣七は、じりじりと甲高《かんだか》い声になっていった。「早く、部屋へ引き取れ」
「はい」
「な、何をぐずぐずといたしおるのだ!」
「はい。あの――」
「何?」
「あの、磯五は、磯五とやら申す呉服屋は、そんなに恐ろしい店なのでござりますか」
「恐ろしい? なにがおそろしいのだ。いや、金のこととなると、世間はみんな恐ろしいぞ。金にかけては、人はすべて鬼なのだ。まず、この若松屋惣七がその筆頭かな」
「はい」
「はいという返事は手ひどいぞ。ははははは、なに、このごろ、磯五の店を暖簾ごと買い取ったものがあってな、つまり、磯五は磯五だが、そっくり人手に渡ったのだ。そのあたらしい主人《あるじ》というのが、眉毛に火がついたように、古い貸しの取り立てをはじめている。この高音のほうも、その一つだろう」
「はい。そうしますと磯五には、あたらしい金主がついたのでございましょうか」
「金主かどうか、それは知らぬ。が、店の名義は、変わったな。挨拶が参っている。それやこれやで、古証文に口をきかせて、いくらにでもしようというのであろう。よくあるやつだが、今度の磯五は、腰が強そうだぞ」
「はい」
「呉服仲間は、馬鹿にできん商売|仇敵《がたき》として、はやおそれておる」
「はい」
「もうゆきなさい。わしも、ちと横になろう」
「では、あの、お床をおとり申しましょうか」
「ううん。それには及ばぬ。たたみの上で、結構だ。手まくらで、とろとろと致そう」
「はい」
「早うあちらへまいれ! その手紙を、それぞれ使いに持たせて、即刻届けさせるのだ」
惣七は、叫ぶようにいった。惣七の声が高まるのは、これから機嫌のわるくなる証拠だ。お高は、早々に座を立って、男たちの部屋へ行った。いま書いた四、五の状箱をかかえて行った。玄関わきの、もとの用人部屋には、佐吉《さきち》と国平《くにへい》と滝蔵《たきぞう》という、三人の男衆が、勝手な恰好《かっこう》で寝そべって、むだばなしをしていた。
「どら、風呂《ふろ》をたてべえか」
と、佐吉がたち上がったところへ、文箱を重ねてかかえたお高が、そっとはいって行った。
はでな色が、不意に動いたのにおどろいて、三人は一時にお高を見た。
「お使いですかい」
内儀《ないぎ》同様のお高なので、このごろでは、男たちも、改まった口をきいているのだ。
「あい。ちょっと行ってもらいましょうよ。三人手分けをして届けてもらうのですよ」
「ようがす」三人は、いっしょに手を出した。
「あっしは、どっちをまわるのですね」
お高は、一つだけ残して、佐吉と国平と滝蔵に状箱を振り当てて、それぞれゆく先を教えた。滝蔵が、お高の手に残っている一つに、眼をとめた。
「それは、どうするのですね。誰か持って行かねえでも、いいのですかね」
「これはいいの」お高は、あわてて、その状箱を隠すようにした。
「これは、あたしが持って行くから――」
それは、若松屋あつかい磯五より、高音さまへ、とある、あれだった。
客
一
あくる朝だ。
松の影が、たたくように障子に揺れている。朝ももう、正午《ひる》近く進んでいることがわかるのだ。若松屋惣七は、石のようにむっつりして、寝床からたった。お高は、きのうから顔を見せない。どうしたのだろう? 頭痛でもして、自分の部屋にこもりきりなのか――ちょっと、そう思った。
それにしては、することだけは、きちん[#「きちん」に傍点]としているのである。夕飯の給仕にも出た。この床も、取っていった。いつものとおり、行燈《あんどん》の燈芯《とうしん》を一本にしてこっちに向いているほうへ丹前《たんぜん》を掛けておくことも、忘れてないのだ。
が、考えてみると、そのあいだずうっと無言だったようだ。気分でも、すぐれないのかもしれない。それとも、何か、気になることでもあるのか。そのときは、そう思っただけで、惣七も、べつに気にとめなかったのだが、どうもきのう以来、あのお高のようすがへんなのである。けさひとつ、顔が合ったらきいてやろう――若松屋は、そう思った。
思いながら、彼は、苦笑した。小判魔、というのもへんなことばだが、そういってもいいほど、とにかく、今では、金のほかは何もなくなっている若松屋だ。その若松屋が、けさは、どういうものか、お高のことが気になってしようがないのだ。
それは、盲目に近い彼にとって、女番頭といえば、大切な人間ではある、ことにお高は、女ではあるが、字も達者だ。それにこのごろは、金稼業《かねしょうばい》のこつ[#「こつ」に傍点]もなかなか呑みこんできている。ただ、手紙の代筆をするだけではないのだ。取り引きに関して、なにげなくはさむお高の意見に、ちょいちょい光るものを発見して、じつは若松屋も、内心おどろいているのだ。
それに、いつからか若松屋に許して、女房もおなじになっているお高でもある。若松屋惣七が、このお高がゆうべから顔を見せないことを気にするのに、別に不思議はないのだが、彼は、珍しく、ほんとに何年ぶりかに、女というもののことをこうして、すこしでも切実に考えている自分に皮肉を感じて、いま苦笑をもらしたのだ。それは、霜の朝の池の氷のような、うすい、冷たい苦笑だった。
八端《はったん》の寝巻きに、小帯を前にむすんだ惣七である。よく見えない眼をこすって、縁の障子をあけた。日光が、待ちかまえていたように、音をたてて飛びこむ。微風が、ねまきの裾《すそ》をなめた。雑草が、陽《ひ》に伏している。しんみりと太陽のにおいがする。今日も、冬らしくない日なのだ。
縁ばたに、杉の手水《ちょうず》だらいと、房楊子《ふさようじ》と塩が出ていた。お高が置いて行ったのだろう。惣七は、ふうっと腹中にたまっていた夜気を吹き出して、かわりに、思い切り日光を吸い込んだ。それにしても、眼の不自由な自分が、いま朝の水を使おうとしているのに、お高が出て来ないというほうはない。惣七は、手を鳴らした。耳を傾けて、反響を待った。どこからも、何のこたえもない。お高は、いないらしいのだ。
若松屋惣七は、舌打ちをした。そこらをなでるようにして、顔を洗った。口をゆすいだ。手さぐりで、廊下を進んだ。彼は、自家《うち》のなかでもこうなのだ。年とってからの眼の故障なので、感がわるいのである。
若松屋惣七は、毎朝、洗顔《すすぎ》がすむとすぐ、彼の帳場である奥の茶室へ引っこんで、一日出て来ないのだ。食事もそこでするのだ。で、壁に手をはわせて、若松屋惣七は、そろりそろりと足を運んだ。
あかるい光線が、茶室にあふれていた。それは、四角い桃色となって、若松屋惣七の網膜を打った。そのなかで、ほっそりした人影が、ゆらりとなびいた。何者か、自分の留守に、この帳場へ来ているのだろうと、彼は思った。同時に、からだ恰好《かっこう》の直覚が、惣七に、その人影はお高であると断定させた。
「お高か」
「はい。お高でございます」
「何しにここへ来ておるのだ。わしがおらんときは、誰もはいってはならぬことを知らぬのか」
惣七は、不愉快な顔をした。不愉快な顔をすると、両眼と、そのあいだの傷あとが、一線に結びつくのだ。机の前へ行って、すわった。机の上で、彼の手に触れたものがある。文箱だ。
「来書か」
といって、惣七は、その状箱を両手に握った。嗅《か》ぐように、鼻さきへ持っていった。眼に近く、いろいろにすかして見ている。こうしているうちに、どうかすると、見えることもあるのである。
高音どのへ、若松屋あつかい磯五の件、とお高の字が読めてきた。
「お!」と、若松屋は、首をかしげた。「これは、きのう送ったはずの手紙ではないか。もう、返書が参ったのか」
「いいえ」
「なに? 返書ではないと」
惣七は、がた、がた、がたと急《せ》き込んできて、文箱をあけた。
「や、これ、封が切ってあるぞ」
いいながら内容《なかみ》をつかみ出した。巻き紙がほぐれて、ばらり、手から膝へ垂れた。それを風が横ざまに吹き流した。
「うむ。これはどうしたというのだ。持たしてやったはずの手紙がどうしてここにあるのだ。これ、
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