、彼が何よりもおそれている、白じらとした虚無の気持ちだった。
 そういえは、お高と磯五は、ちょっとした身のこなし、ことばの端はしにも、共通なものがある、二人が、おたがいを開き合って暮らしたであろうころの想像が、一秒のうちに、若松屋惣七を、はげしい嫉妬《しっと》に駆った。
 彼は笑いやんでいた。
「いろいろとお二人のあいだに、積もる話もござろう、中座いたす」
 思わず、さむらいの前身が出た。膝をあげて、たちかけていた。

      二

「いや」磯五が、手をあげてとめた。ころがるような、へんにまるい声だ。「いや、なに、驚きました。ちょっと、びっくりいたしましたよ」
 あははと笑って、彼は立ち上がった。ふところからきれいに畳んだ手ぬぐいを取り出した。いきなりしゃがんで、お高のこぼした茶をふきはじめた。
「何という粗相だ! これ、おわびしないか――」
 それはまるで、じぶんのところへ来た客に、妻の高音が粗相をしたような、もうすっかり主人らしい口調である。
 これが、静観にかえりかけていた若松屋に、ぐっと激怒をあたえた。
「お高、ふけ!」
「はい」
 お高はおどおどしてかがんだ。磯五が、さえ
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