はなかろうじゃねえか」
「あい何もやっきになってやしないがね――」
いいすてて、お駒ちゃんは、道路《みち》の一方へすたすた歩き出した。それは、日本橋のほうへ帰る方向だったので、久助は安心したが、しかし、お駒ちゃんが血相を変えているのが心配であった。呼びながら、二、三歩追いかけた。
「これ、お駒。この夜ふけに、女ひとりで歩いてけえれるわけのものじゃあねえ。おれがいま、夜駕籠をめっけて寄越すから――」
歯を食いしばっているらしいお駒ちゃんの声が、先のやみから流れてきた。
「いいよ。構わないでおくれよ。それより、お父つぁんは、あの五兵衛に気をつけていておくれよ。ほんとに、何をするか、よく気をつけていておくれよ。後生だからあいつに眼を光らせて――」
傷ついたまま追われている鹿《しか》のように、お駒ちゃんは、よろよろとして、しかし、それにしては驚くべき速さで、もう黒い影が、倒れるようにむこうの角をまがって見えなくなってしまった。
久助は、長いこと往来《みち》に立ちつくしていた。そうやって、お駒ちゃんの残したことばを、あたまの中でかんでいるようなようすだった。やがて、そのほんとの味がだんだ
前へ
次へ
全552ページ中286ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング