、あけ放した縁からそっと忍び込んできて、羽毛《はね》のようにふわり[#「ふわり」に傍点]と惣七の頬《ほお》をなでて、反対側の丸窓から逃げて行く。それによって惣七は、一室にすわりきりでいながら、世の中が春に近いことを知っている。
若松屋の茶室である。いや、茶室であると同時に、惣七の帳場でもあるのだ。三尺の床の間に、ささやかな経机、硯《すずり》箱、それに、壁に特別のこしらえをして、貸方、借方、現金出納、大福帳などの帳簿が下がっている。状差しに来書がさしてある。口のかけた土瓶《どびん》に植えた豆菊の懸崖《けんがい》が、枯れかかったまま宙乗りしている。そんなような部屋なのだ。あるじ若松屋のごとく、すべてが簡素である。悪くいえばさびしい。よくいえば寂《さび》ているというのだろう。
次の間へ投げた惣七の声には、すぐ反響があった。はい、と口のなかで答えて、女がたったのだ。衣《きぬ》ずれの音がした。すうっと襖《ふすま》がすべって、このへんでは珍しい下町風俗の、ようすのいい女のすがたを吐き出した。すんなりした肩、はやりの絵のようなからだつき、眉《まゆ》が迫って、すこし険のあるのが難だが、それも、しい
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