がして若松屋惣七の膝へ顔を投げて泣き入りたかったが、そうはしなかった。磯五との関係が白か黒かに決着がつくまでは、じぶんの感情も流れにまかせてはならないし、若松屋惣七のこころもちをも、これ以上突き詰めたものにしてはならないと、とっさに気がついたからだった。
お高は、おなかの子供のことさえなければ、何もかもそのままにして、自分一人でどこか遠い旅へでもたってしまいたかった。それは若松屋惣七の前にいると、じぶんも苦しいし、若松屋惣七をも苦しめるのが、それがまた苦しいので、いっそそんなことも考えられるのだったが、それは、お高が若松屋惣七を恋しているからで、ではといって、思い切ってそうし得ないのも、つまりは、同じ理由からだった。
「お金をやって手を切ってもらえれば、一番いいのでございますけれど、そのお金がくるのやらこないのやら」
「縁切りになっておると申したではないか」
お高ははっとして、その若松屋惣七のことばを無視しようと努めた。そして、
「いっそ死にでもしてくれますと――」
といいかけて、いっそうはっ[#「はっ」に傍点]として口をつぐんだ。あわてて、上眼づかいに若松屋惣七を見た。
若松屋惣七は、平然としていた。聞こえないようすなのだ。しかし聞こえないはずはない。若松屋惣七も、そのお高のことばを無視して、ぎょっとしたのを隠そうとしているらしかった。表情のない人なので、顔には何も出ていなかった。
しばらくしていった。
「わしとお前とのことは、どこまで行っても、同じであろう。近いようで遠い。な、それだけのことじゃ。これは、星が悪いのであろうとわしは思う」
若松屋惣七は、ここで珍しいことをした。大声を立てて笑ったのだ。その笑い声に消されて、お高の泣き声は、若松屋惣七には聞こえなかった。
四
若松屋惣七が、麦田一八郎にも頼んで、二人で磯五を看視して、お高に近づけないようにすること、そのうちには、お高の出生や生い立ちを知っている生きた証人も現われるだろうし、父として死んだ他人の相良寛十郎と、ほんものの相良寛十郎との仔細《しさい》も分明して、財産の一件もどのみち落ち着くことであろう。そういう話になって、当分はじっとしているよりほかないのだった。
十日ほどして、磯五からのがれるために、おせい様は西京《さいきょう》のほうへ旅をすることになった。気候はよし、東海道の宿々をつぎつぎに下って行くのも、一興でないことはなかった。
お高と歌子が、そのぶらぶら旅にいっしょに行くことになった。若松屋惣七と麦田一八郎は、ひとまず金剛寺坂の家へ帰って、若松屋の仕事に一区切りつけて後始末をみてから、一足遅れて江戸をたつことになった。途中で追いつこうというのだった。女だけの三人旅でも、歌子という、武技にひいでた男まさりがついているから、安心であった。
若松屋惣七は、久しぶりに紙魚亭と歩いてもみたかったが、何よりも、掛川の具足屋に行っている龍造寺主計に会って、その後のようすを聞きもし、具足屋のふとりぐあいを見たかったので、これを機会に、五十三次をする気になったのだった。
ところが、あす発足という前の晩に、深川の木場の甚からお高のところへ飛脚が来て、探していた証人がみつかって、いよいよ柘植の財産の引き継ぎが決められなければならないから、大急ぎで来るようにという書面が届けられた。
ここまで話が進んでくると、木場の甚ばかりでなく、和泉屋の総本家のものとも会って、いろいろこみ入った相談にはいらなければならないのであった。それには、時を移さず、ふか川要橋の木場の甚の家へ駈けつけることが必要だ。
若松屋惣七は、さすがにお高のためによろこんで、すぐ江戸へ向かうようにせき立てた。おせい様といっしょに上方へ行けないのは残念でもあり、おせい様のことが気がかりでもあったが、しかし、歌子が同道するのだから、その点は心配しないでもよかった。
お高は雑賀屋の久助に送られて、夜道をかけて小石川へ帰った。その足で金剛寺の洗耳房に一空さまを訪れると、出て来た一空さまは、しばらく会わなかった自分の娘を迎えるように上きげんだった。それはいつものことだが、この一空さまの態度には、吉報といったようなものを包んでいるところがあった。一空さまの細い眼が、奥へ引っ込んで見えなくなっていた。
「江戸一、いや、日本一の女分限者の御光来じゃな」一空さまは、剽軽《ひようきん》に頭をさげた。
「いやめでたいことじゃ。生きた証人が出て来ましたぞ。お前さまのことを、ようく知っておるのだ。おゆうさんと相良《さがら》うじが大阪に仮寓《かぐう》のころ、あんたに乳をふくませた乳母《うば》じゃとかいう。だいぶんおゆうさんの気に入りだったとみえて、柘植家のことにはかなり通じておるのみか、今もいうとおり、あ
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