お高は大声をあげようとしたが、口をふさがれているので、意味のわからないうめきになってしまった。磯五はすぐ、縁切り状を握った手を懐中《ふところ》へ入れて、何事もなかったようにゆきかけようとした。お高はぼんやりして、どうしていいかわからなかった。離縁状などというものを奪ったり奪われたりしているのが夫婦喧嘩のようで人を呼び立てるのはいやであった。
 ただ磯五の卑怯《ひきょう》な仕草はいうまでもないが、何ゆえこんな泥棒のようなことをして引ったくらなければならないのだろうか。
 一度は縁切り証文を書いたものの、あとになってみると、自分と別れるのがそんなにつらいのだろうか。あんなに、わりにあっさり書いてくれたものを、今になってどうしたというのだろう。そんなに自分を思っているというのかしら。
 お高が馬鹿々々しい感じが先に立って争う気もちにもなれないでいると、磯五はお高のほうへ、礼でもいうようにちょっと笑顔をみせて、ゆったりした歩調で廊下を歩き去った。
 お高は、若松屋惣七に、このいきさつを話さなかった。引ったくったほうも、ひったくられたほうも、どっちもどっちのような気がして話す心もちになれなかったのだ。
 若松屋惣七と歌子と、岩槻から来た麦田一八郎の紙魚亭主人と、おせい様は、お客さまが好きであった。ことに、こうしてすこしでも江戸を離れていると、江戸の人をなつかしがっていつまでも引きとめておこうとした。が、そこへ、水の上へ油が一滴落ちたように、決してまじらない存在として、自分勝手に磯五が割り込んできて、がんばっているのには、悩まされた。
 が、もともと相識《しりあい》はしりあいなのだし、知りあいどころか、ついこのあいだまで大事な情夫《おとこ》であったのだから、そうむげ[#「むげ」に傍点]に追い立てるということも、おせい様にはできなかった。煮え湯のような気持ちでいながら、人前では、さりげない応対だけはしていた。磯五は、それをいいことにして、のんべんだらりと滞在していた。みな磯五に白い眼を向けて、何かしら激しい空気が、日増しに凝結していくようにみえた。
 若松屋惣七と紙魚亭主人の一八郎とは、磯五の姿を見かけるたびに、よく眼をかわしてうなずき合っていた。若松屋惣七は、ぼんやりした網膜に磯五を追いながら、苦にがしげに口を曲げた。
「きやつはいずれ殺《ころ》されることになるであろう。磯五自身のためにも、みなのためにも、彼男《あれ》は一日も早く殺したがよい」
 そんなことをいって笑った。聞こえないから、磯五は、平気の平左だったが、聞こえても、おそらく平気だったろう。

      三

 そのうちすこしずつお高にわかってきたことは、磯五が、あのいまお高にこようとしている莫大な財産をかぎつけて、それでこう急に、しつこくそばを離れまいとしだしたのではないかという懸念であった。
 どうして知るようになったのか、それが腑に落ちなかったが、もしあの財産のにおいをかいだものとすれば、お高を放すのが惜しくなって、ああして一度書いた縁切り状を奪い返したことも読めるのだ。内実はどうでも、表向き夫婦ということになっていれば、お高のものは磯五の自由になるに相違ないのだ。磯五のことだから、すくなくともそれまで、どんなことがあってもお高の身辺から身をひくまいとするにきまっているのだ。
 お高は、何ゆえ早くここへ気がつかなかったろうと迂濶《うかつ》に思えて、同時に、あさましい気もちがこみ[#「こみ」に傍点]上げてきた。そんな金なぞいらないと思った。考えてみると、はじめからほしくも何ともなかった財産なのだから、それにいま、磯五という銀蠅《ぎんばえ》か黄金虫《こがねむし》のような男がくっついてきて、それと争わなければならないようなことになるなら何もほしくない。いっそ母の金など一文も手にはいらないほうが、さばさばしていてどんなに気持ちがいいか知れないと思った。
 が、一方そういったものでもなく、母の金は当然受け継いでおいて、磯五のほうこそいかなる方法でか振り切るべきではないかとも、考えられた。そしてそれには財産がきたらその中から、相当の額《もの》をやって追っ払うのが一番いい。そういうことにしましょうとお高は決心した。
 若松屋惣七とも、たびたび談合した。
「どういうことになるのか、わしにもわからぬ」
 若松屋惣七は、珍しく悲痛な調子だ。若松屋惣七が悲痛な調子になると、よく見えない眼が白っぽくきらめいて、顔の傷がくっきり浮き立ってくるのだ。それがいつもお高の哀感をそそって、若松屋惣七の顔を見られなくするのだ。
 お高は、この方はやっぱり自分を思っていてくださる。そして自分も、旦那様を愛しているのだ。愛しているとはっきり気がつかないほど、心の底の深いところから愛しているのだ。そんな気
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