かわんまでも、相良どのは、たいそうな金持ちであったはずじゃ」
「いいえ。ちっともお金持ちでなんぞございませんでしたよ。貧乏でございましたよ。古石場の屋敷なぞ、留守《るす》がちでございましたから、それはそれは汚れて、荒れほうだいでございましたよ。
わたくしも、父につれられて、あちこち旅をいたしましてねえ、また、父は、そのほうの眼が肥えておりましたので、家には、諸国の珍しい品がたんとございましたが、わたくしが、家を畳みますときに、みんな売り払いましてございますよ」
「するとあんたは、父親が大分限者《だいぶげんじゃ》であったことに、気がつかれなかったというのじゃな」
「妙なお話でございますねえ。父は、大分限者でも何でもございませんでしたよ。大分限者どころか、ずいぶん困りましたこともありましてございますよ」
「おゆうさんは、香が好きでな。日本中をはじめ、唐《から》朝鮮の珍稀《ちんき》な香炉をずいぶんと金にあかしてたくさん集めてもっておられたが、あのうちの一つだけでも、大店《おおだな》の一つや二つには価《あたい》する大財産じゃ。あの香炉は皆どうなったかな」
「おっしゃることがすこしもわかりませんでございます。そんな香炉など、わたくしは、見たことも聞いたこともございませんですよ」
「相良どのが死なれたとき、大口の借銭でも遺されたかな」
「いいえ、そんな引っかかりは何もございませんでした。きれいなものでございました」
「はて! あと始末は誰がしたのじゃ。」
「深川の顔役さんで、木場《きば》の甚《じん》とおっしゃる人が、すっかりめんどうをみてくださいましたよ」
「ほかに、相良どのの在世中、出はいりして、家事向きの相談にあずかった者があろうが」
「いいえ。そういう方は、ひとりもございませんでしたよ。さっきから申しますとおり、江戸にいましたりいませんでしたり、それに交際《つきあい》ということの大きらいな人でございましたから」
お高がそういうと、一空さまは、じつに不思議な話だといって、しきりに首をひねるのだ。容易に信じようとしないのだ。何がそんなに不思議なのかと、お高こそ、不思議でならなかった。
それから、一空さまは、相良寛十郎が死んだとは知らなかったこと、後妻を迎えはしなかったかのと、いろんなことをきいた。お高は、たった一年、父が南のほうへ旅に出たあいだ離れて暮らしただけで、ほかはいつもいっしょにいたのだから、じぶんの知らない妻や妾《めかけ》があったはずはないと断言した。
一空さまが、あんまり亡父《ちち》のことを根掘り葉ほりきくので、お高は、すこし不愉快になってきた。黙っていると、一空さまは、ひとり言のように繰り返した。
「合点がゆかぬ。どうも合点がゆかぬ」
「何がそう合点がゆかないのでございます」
お高が、一空さまの顔を見上げたとき、ふたりは、金剛寺門前町のごみごみした通りにさしかかっていた。
四
むこうに山門が見えている。風が、路上を狂奔している。かなりに広い通りだ。両側は、金剛寺をはじめこのへんの武家やしきで立っている小売りの店屋だ。米、味噌、醤油、酒、油、反物、筆墨、小間物、菓子、瀬戸物、履物《はきもの》類、その他の日用品をひさぐ店が、ずらりと櫛比《しっび》しているのだ。
大したものはなくても、何でも用が足りる。この山の手での下町で、近所に重宝がられてきた小商人の町すじなのだ。ここだけで、さながら独立の一商業区域をつくっている。遠く神田|京橋《きょうばし》、日本橋へ出なくても、ここへさえおりてくればおよそないものはない。昔から、ここらの寺と武家屋敷に囲まれて、切り離されたように独自の発達を遂げてきた一劃《いつかく》だ。それが、金剛寺門前町である。なかなかにぎやかな街景だ。
ことに、今夜は縁日が立つらしく、風の中で、地割りの相談をしている人がある。子供相手の面白焼きが地面に筵《むしろ》を敷いて支度をしている。風に追われて、娘たちが派手な衣装をひるがえして町を横ぎったりしているのだが、何となくひっそりしているのである。
といって、この風にもかかわらず、人通りは、いつもより多いようだ。それでいて、華《はな》やかな笑い声一つなく両側の店をのぞいて行くと、暗い額部《ひたい》をした主人《あるじ》や番頭が、ひそひそ話し合っている。やくざ者らしい風俗の男たちが、上がり框《がまち》に腰かけて、真っ赤な顔をして、何かしきりに弁じ立てていたりする。丁稚《でっち》が、そろばんを突っかえ棒に、きちんとすわったまま眠っているような、いつもの風景もない。
出たりはいったりする女の顔まで、殺気走って、何かしら、押えつけている昂奮《こうふん》が感じられるのだ。その、ひそかなる戦意といったようなものが、風といっしょに、町全体に流れわたって
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