つづいて歩きながら、お高がいった。
「旦那さま、歌子様が片瀬の龍口寺とやらへお詣りにお誘いくださいましてございます」
 若松屋惣七の剃刀《かみそり》のような顔が、にっこりした。
「うむ片瀬へ? それは面白い。どうじゃ、おれのいったとおりであろう、どうもお前たちふたりは仲よしになるであろうと思ったのだ」
「はい、それはもう仲のよいお友達になりましてございますけれど、でも、歌子様のお客さまになって旅をいたしますのは気がねでございますから、おことわり申し上げましてございます」
「歌子の客というのは、どういうことかな」
「路銀をすっかりお持ちくださるとおっしゃるのでございます」
「路銀と申したところで、相州であるから知れたものだ。出すというなら、出させておいてよいではないか」
「いえ。それでは、わたくしの気が済みませんでございます」
「馬鹿堅いことをいうな。そんならおれが出してやろう」
「こちら様にはお仕事がございますし――」
「それも、おれがよいと申したら、それでよいではないか」
「でございますけれど――」
 二人は、お高の部屋へ行って、むかい合ってすわった。若松屋惣七が、いいつづけた。
「お高、お前は何か、一日も江戸を明けられぬわけでもあるのかな」
「いいえ、そんなことはございませんが――」
「それならば、遊山かたがた参詣《さんけい》に行け。おれも行くのだ。一日でも二日でも、土地が変われば気もちもあらたまる。わしに、麦田一八郎に、お前に、歌子に、大久保の――」
「でも、旦那様、お高は参られませんのでございます」
「なぜだ」
「なぜでも参られませんのでございます」
「だから、なぜだときいておるのだ」
 お高は、しばらくうつむいていた。低い声でいった。
「旅をしては悪いのでございます」
「旅をして悪い――?」
「はい。旅をしては悪いからだなのでございます」
 若松屋惣七は、その意味を考えて、うかがうようにお高のほうへ顔を向けた。
「そうか」
 と、いった。お高は、膝で歩いて、若松屋惣七のほうへ寄って来ようとした。若松屋惣七が手を出してそれを助けたので、ふたりはすぐ畳のうえの影を一つにして、じっとなった。それきり、両方とも同じことを考えて、黙っていた。
 お高を残して、四人で行くことになったけれど、くるはずの紙魚亭主人もまだ来ないし、大久保の奥様の風邪も思ったより長びいているので、龍口寺詣りのはなしは、そのままぐずぐずして、一時立ち消えの形だった。
 じっさい、人に旅を思わせる好天気がつづいて、江戸の空は、藍甕《あいがめ》の底をのぞくように深いのだ。朝早く、金剛寺の森にうぐいすが鳴く。夜も昼も、草木の呼吸する音が聞こえるような気がした。そんな毎日だった。
 お高が、縁側へ古い手紙類を持ち出して、一応眼を通したのち、一つひとつ丹念《たんねん》に破いているところへ、玄関に人声がして、国平が取り次ぎに出た。お高は、手紙を巾広く破いておいて、あとで、それを折ってはたき[#「はたき」に傍点]をこしらえましょうと思って、そのとおりに気をつけてやぶいていた。うしろへ、国平が来てうずくまった。
「一空《いっくう》さんが、おめえ様に会いてえといってお見えになったのです」
「一空さん――」
 お高は[#「お高は」は底本では「お高い」]、不意に思い出せないで、眉を寄せて、考えた。
「へえ。裏の金剛寺の一空和尚なのですよ」
「まあ、あの和尚さまが来たのですか。それで、わたくしに御用がおありだとおっしゃるの。上げてくださいよ。お座敷へお通し申しておくのですよ。えらい坊さまですから、失礼のないようにねえ」


    洗耳房《せんじぼう》


      一

「では、一空さまをこちらへ」
 まもなく、まるい顔に細い眼を笑わせて禅師が、その部屋にお高と向かいあってすわっていた。
「だしぬけにまいって、お邪魔ではござらぬかな」
「いいえ。どういたしまして」
 お高は、金剛寺の境内などで、両三度この坊さまを見かけたことはあったが、こうしてそばでしげしげと見るのは、はじめてであった。おかしい人だとばかり思っていたのが、何だかなつかしい人だと思った。こういう坊さまだからこそ、じぶんの費用で学房などをひらいて、近所の子供と仲よしになっているのだと思った。
「じつは、先日|洗耳房《せんじぼう》のために喜捨《きしゃ》してくれたお武家が、当屋敷に厄介になっておると聞いて、礼をいいかたがた、ぜひ見てもらいたいものがあって来たのだが、いま玄関で聞けば、あの人はもうおらんという。そこで、代わりにあんたに会うてみる気になった」
 洗耳房というのは、寺内に結んでいる一空和尚の庵室のことであった。そして、そこへ近隣の小児《こども》たちをあつめて、学問を教えているのだった。
 お高は、龍造寺主
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