かり真に受けて、あたいのいうことは取り合わないのさ。馬鹿々々しい。誰がこんなところにいてやるもんかと思ってね、いいかげんあきてもいたところだったから、ぷいと飛び出しちゃったの。
 お前は、あの吉田屋を御殿のように思っているようだけれど、あんな家、奉公人には地獄だよ。でも、いくらそんなこといったって、お父つぁんは眼の色をかえて怒るにきまってるから、当分あたいのしたいようにしてみて、何とか眼鼻がつくまで、自家《うち》のまえを通っても、知らん顔をしていよう。そのうちこっちから挨拶に出て――」
「待ちな。その吉田屋さんで起こったへんなことてえのは何だ」

      三

「あっ、そのこと。何でも、おかみさんの物がなくなって、あたいの行李《こうり》から出てきたとかいうんだよ」
「とかいうんだとは、まるで他人事《ひとごと》みてえじゃあねえか」
「そうさ。あたいはちっとも知らないことなんだもの。ほかの女中がそっと盗《と》って、あたいの荷物へいれておいて、ないって騒ぎ出したのさ。あたいを追い出そうというんで、一狂言かいたんだよ」
「おめえは覚えのねえことだという証《あか》しを立てて出て来たんだろうな」
「でも、証しの立てようがないじゃないか。みんな向こうへついていて、おかみさんなんか、頭からあたいを泥棒あつかいにするんだもの。何が何だか、あたいにゃさっぱりわかりやしない。ほんとに、奇妙な話だねえ」
 久助は、ぎっくりした。急に立ちどまって、闇黒《やみ》を通してお駒ちゃんの白い顔をみつめた。
「お駒、ほんとにおめえは、おぼえのねえことなんだろうな」
 うたがいが、久助の声に恐怖を持たせた。お駒ちゃんは、あっさり受け流した。
「何をいってるんだい。いやだよ、お父つぁん。お前までそんなこというのかい。何ぼ何だって、あたいは泥棒じゃありませんからね。みんな仲間の女中が仕組んだことさ。見えすいてるじゃないか。それだのに、あのお民ってお内儀《かみ》さんに、そこんとこを見分ける眼がなかったから、いっそのこと、あたいが出たまでのことさ」
 久助は安堵《あんど》の吐息をもらして、
「ほんとにおめえが盗ったのでなけりゃあ、それはそれでいいとして、それからどこで何をしていた。二年といやあ、決して短え月日じゃあねえ」
「そりゃお父つぁん。これでもいろんなことがあったよ。阿国歌舞伎《おくにかぶき》で、あちこち打ってまわったり、ものまねのようなことをしてみたり――」
「だが、今は芸人じゃあるめえ」
「こういうわけなの。お父つぁんは、何かあたいが悪いことをしてるように考えてるから、話しにくくってしようがないけど、べつにわるいことをしてるわけじゃあないんだよ。早くいえば、こうなのさ。あの磯屋の旦那の五兵衛さんて人に見込まれてねえ、ちょっと助《す》けに行ってあげているんだよ」
 暗いので、よく見えないのだが、久助は、お駒ちゃんの顔に眼をすえているらしかった。
「見込まれたって、おめえのどこがそんなにいいのかおれにあさっぱりわからねえ。顔かい」
「顔もいいけれど、からだがいいんだって」
「へっ、あきれたことをぬかすやつだ。恥を知るがいいや」
 ほんとにあきれ返ったように、久助が吐き出すようにいうと、お駒ちゃんはげらげら笑い出して、
「妙な感違いをしないでおくれよ。からだといったって容子《ようす》がいいっていうまでのことさ。ほんとに、お前は話がわからないから、いやになっちまうよ」
「いま何をしているかって、それを聞いているんじゃあねえか」
「だから話しているんじゃないか、へんないきさつがあってねえ、でも、心配おしでないよ。悪いことじゃないんだから。あたいはいま磯屋の人間さ」
「ふん、妹でもねえものが、妹という触れ込みでな。これはいってえどういうわけだ」
「それはね」と、お駒ちゃんはごまかすように、「商売上、そうしておかないとぐあいのわるいことがあるからさ」
「てえげえ察しがつかあ。おいらの主人のおせい様をだまそうてんだろう。磯屋の旦那はおせい様といっしょになるんだってえじゃあねえか」
「そうだとさ」
 お駒ちゃんはためらって答えた。
「そうだとさって、よく知らねえのか」
「よくは知らないやね。人のことだもの」
 お駒ちゃんがいやな顔をすると、久助は、せせら笑いながら突っこんだ。
「人のことって、兄貴のことじゃあねえか。それあそうと、おめえが磯屋さんの妹ってえのが、おれにあまだ腑《ふ》に落ちねえ」
「いいじゃないか。そんなことうるさくきかなくったって。おせい様は、呉服太物の商売には、流行《はやり》の色や柄を見る、女の眼が光っていないと、安心しないんだとさ。だから、磯屋さんは、そんなことに眼のきく妹があるっていってしまったの。だから、あたいがちょっと頼まれてその妹になっているのさ。
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