ぬこと。ま、許してもらおう。ははははは」
若松屋は、意地わるく出るのを、押えることができないのだ。
三
「旦那様、どうぞ一とおりお聞きくださいまし」
泪《なみだ》に光った顔は、庭の松の樹の反映で、惣七にはみどり色にうつった。惣七はそれを不思議なものと見た。
「聞く――必要もあるまいが、ま、聞きましょう。しかしわたしを泣き落として、その二百五十両を払わせようと思っているなら、むだだ。よしたがよい。理由のないところに出す金は、わしには、一文たりともないのだ」
「まあ! 決してそんな――」
「気はないというのだな。ははははは、それで、大きに安心いたしたよ。何でも聞きましょう」
「払えるつもりで――払う目当てがあって、買ったのでございます」
「高音どの、お前さまはいったい、何者なのだ?」
「どうぞ、高音とだけは、お呼びくださいますな。いまのわたくしは、ほんとに、ただの高なのでございます」
「それは、まあ、どっちでもよいが――」
「わたくし、自分のお金といっていいものを、二千両ばかり、もっていたのでございます。けれど、どうしてあのとき、あんなに衣裳《いしょう》に浮き身をやつしたのか、自分でもわからないのでございます。きっと、離れかけていた良人《おっと》のこころを、身を飾って取り戻そうと努めたのであろうと、じぶんのことながら、まるで他人事《ひとごと》のようにしかおもわれないのでございます」
意外という字が、若松屋の顔に、大きく書かれた。
「良人? 良人が、あったのか」
「良人は、わたくしがいい着物を着ているのを見るとこのうえなく機嫌がよかったのでございます。わたくしのお金で買いさえすれば――」
「そりゃ、そうだろう。その、美しいお前が、いい着物を着るのだ。一段も二段も、たちまさって見えたことであろうよ。自分の財布《さいふ》が痛まぬ限り、誰しもよろこぶのは必定だ。うふふ、そんな馬鹿ばかしいはなしはよしてくれ。聞きとうもないのだ」
そっけなくいい放った。が、すぐ、ちょっと気をやわらげたようだ。
「その、良人とやらは、武士か」
「はい、いえ、大奥のお坊主組頭《ぼうずくみがしら》をつとめておりましてございます」
「もちろん、故人であろうな」
「は?」
「いや、いま在世してはおらぬのであろうな」
「いえ、生きておりますでございます」
「なに、生きておる?」
若松屋惣七の顔には、純真なおどろきと、不審と、好奇と、何よりも悲痛の色が、一時に、はげしい渦《うず》をまいた。
「良人の生きておることを知りながら、妻たるお前はどうしてわたしと、こういうことになったのだ――」
「あなた様を、おたぶらかし申したようなことになりまして、面目次第もござりませぬが、決してそんな――」
「ええっ! よけいなことを申すな。いつ会ったか、その良人と」
「いえ、会ったことはござりませぬ。会ったことはござりませぬ。ただ、死んだといううわさは聞きませぬから、まだ、生きておるのであろうと思うだけでございます。わたくしは、感じますのでございます。良人は、まだ生きておるのでございます」
若松屋惣七は、だんだん事情がわかってくる気がした。
「その茶坊主の良人とやら、お前には、つらく当たったであろうな」
「はい」
と、お高は、つらかった日を思い出したように、顔を伏せた。若松屋は、形だけの眼をしばたたいて、のぞき込むようにした。
「お前の持っておった金子《きんす》を横領して、姿を隠したというのであろうな」
「はい」
若松屋惣七は、茶坊主などという、そういう型の男が、眼に見えるような気がした。そういう男に対する嫌悪《けんお》と憤怒《ふんぬ》のいろが、白く、彼の額部《ひたい》を走った。同時に、お高に対しては、すこしくやさしい心になったらしい。腕を組んで、庭へ眼をやった。
お高が、いっていた。
「半年ほど、いっしょにいたばかりでございます。つらい半年でございました。あげくの果て、わたくしのお金をさらって、逃げて、おおかた、ほかの女にでも入れ揚げたのでございましょう」
「三年前のことだというのだな」
「三年まえでございます。そのために、立派に払えるはずだった磯五のほうも、払えなくなってしまったのでございます」
「何をしておった。それから、当家へ参るまで」
「あちこち女中に住み込んだりなど致しまして、精いっぱい働いて参りましてございます。良人が、洗いざらい持って行ってしまいましたので、ほんとに、わたくしに残されましたのは、浴衣《ゆかた》一枚でございました。そのなかから、お給金をためて、五両だけ返金いたしたのでございます。ほかにも借りがございましたし、それに、良人の不義理のあと始末や何か――」
「きやつ――というては、悪いかもしれぬが、きやつはいまだに、奥坊主組頭をつとめ
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