もわかりませんよ。決して手を引きませんから、そのおつもりでいてくださいよ」
 叫ぶようにいったお高だ。それには、泣き声のようなものがまじっていた。色のないくちびるを歯がかんで歯のあとがついているのだ。
 お高は、蒼《あお》い顔をして、たち上がっていた。
「お前さまのようなお人、もうもう顔を見るのもいやでございます。せいぜいおせい様なり、あの急ごしらえの妹さんのお駒とかいう女《ひと》なり、そのほか何人何十人の女でも、手腕《うで》いっぱいにおだましなすったがおよろしゅうございましょう。女をおつくりあそばすのは、殿方の御器量と申すことでございますからねえ。ほんとに、磯屋五兵衛さまは、見上げたお腕前でいらっしゃいますよ。ごめんくださいまし」
 お高は、ちょっと裳《もすそ》をからげて、草を分けて歩き出した。白い足に、狐《きつね》いろに霜枯れのした草の葉がじゃれついて、やるまいとするようにからんだ。本堂の屋根を、筑波颪《つくばおろし》がおどり越えてきた。周囲の老松と老杉のむれが、ごうごうと喚声をあげた。うす陽のかげがふるえた。冴《さ》えかえる寒気だ。
 磯五は、衣かけの松のその衣かけの枝に、うしろざまに両肘をあずけてもたれかかったまま、立ち去ってゆくお高を見ていた。お高は、立ちどまって、腰をまげて、風にあおられる着物を押えていた。風を持てあまして、くるりと向きをかえた。磯五のほうを向いたのだ。磯五は、顎《あご》を引いて、えくぼを深くしながら、お高を見ていた。
 お高は、頭髪《かみのけ》が顔へかかってきてしようがないので、それをもかきあげた。そういう乱れたところを、まじまじと男に見られるのがいやだったので、ついにっこり笑ってしまった。てれかくしに笑ったのだが、磯五も、すぐに笑いかえした。
「高音、そうけんけんいわずと、ここへ帰って来なさい。まだ、話があるんだ」
 風が、その離れたところから、お高の声を運んできた。
「そのおはなしというのは知っていますよ。わたしはお駒さんではありませんからねえ。お前さまが勝つかわたしが勝つか、これからは、はっきり敵味方に別れて、智恵くらべをしましょうよ。お前さまが勝てば、わたしが負けるのでございますし、わたしが勝てば、お前さまが負けるのですよ」
「そういうことになりますかな」
「そうでございますよ」
「何をわかりきったことをいうのだ。おい、高音、こっちへ来な」
 磯五の顔が急に動物的にゆがんできた。お高は、磯五が何を考えているのかわかった。ふと磯五に惹《ひ》かれるものが、お高の身内にちらとひらめいた。それは、忘れていた磯五であった。お高は、たぐり寄せられるように、磯五のほうへ引っ返しかけた。そこへ強い風が吹いたので、お高は、風に押されて、ころがるように、よろよろと意外に磯五の近くまで来てしまった。
 磯五は衣かけの松をくぐって、むこう側へ出ていた。そこは、樹《き》にかこまれて、どこからも見えないところであった。磯五は羽織を脱いで、ふわりと草の上にひろげていた。

      四

 それを見ると、お高は、はっとした。いそいで磯五に背中を向けて、風にさからって走り出した。うしろで何かいう磯五の声がしていた。ばらばらと衣かけの松を離れて、追っかけてくる気はいであった。お高は、口をあけて風をのんで、駈《か》けつづけた。夢中であった。
 樹のあいだを縫って逃げるので、いきなり眼のまえにあらわれる立ち木を、すばやくかわすのが大変であった。お高がその樹々のあいだをすり抜けるときは、踊りの手ぶりのように見えた。すぐうしろに、磯五のあし音が迫ってきているような気がした。何度も、声をあげようかと思った。
 実朝公の碑のまえから、もと来た参詣みちへころび出たところで、お高は精がつきて、地面へくずれようとした。話しながら通りかかっていた二人づれがあった。左右から手を伸ばして、お高をささえてくれた。
「ほう。お前は、さっきの若松屋の人ではないか。こんなところを駈けまわって、何をしているのです」
 龍造寺主計が、面白そうにいった。ひとりは、龍造寺主計で、もう一人は、一空和尚であった。一空和尚は、まるい顔に、仕つけ糸のような細い眼を笑わせていた。でっぷりしたからだを、つんつるてんの衣で包んでる。
 いつも若者のように元気な老僧だ。まっ赤な顔をして、笑ってばかりいるのだ。馬鹿みたいだが、たいへんに悟りをひらいた坊さまだということだ。ころもの袖《そで》をほらほらとゆすぶって、大きな口を空へむけて、笑った。
「兎《うさぎ》狩りでも思いつかれたかな」
 そして、手をあげて、すこし離れた箇所《かしょ》を指さした。そこには、風雨にさらされて字の読めなくなった禁札が建っていた。御門内にてとんぼ獲《と》ることならんぞよ、と大きく書かれてあった。
「あれ
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