うち見えますでございましょうよ。わざわざあなた様に呼びにいらしっていただかなくてもよろしいんでございますよ」
うしろで、少女《こども》のように邪気のない、おせい様のほがらかな声がしていた。ああいう人をだますなんて、空恐ろしいとは思わないかしらとお高は思った。
お高は一度往来へ出て、そこからそれとなく店をのぞいてみるつもりだった。何だか、わるいことをしているようで、ためらいながら、式部小路の通りまで出た。白く乾いた地面に日光が揺れていた。かた、かた、かたと金具を鳴らして錠剤屋《じょうさいや》が通り過ぎた。色の黒い錠剤屋が汗ばんだ額を光らせて、ちらとお高を見て通った。すぐあとから、尾を巻いた犬が、土をかいでいった。
日本橋の通りに、大八車がつづいていた。近所に稽古屋《けいこや》があるに相違なかった。女の児《こ》の黄いろい声とお師匠さんの枯れた声とが、もつれ合って聞こえてきていた。お高は、そっと店の前へまわろうとした。
磯屋の前は、ちょっとした空地《あきち》になっていた。小松が二、三本はえていた。これから普請《ふしん》にでも取りかかろうとしているのだろう。まばらな板囲いがまわしてあって、材木などが置いてある。
その囲いのなかの、磯屋の店からはちょうど仮塀のかげになって見えないところに、ちょっと人が動くのが見えた。お高のところからは、横からすかして見るようなぐあいになるので、板がこいの隙間《すきま》から見えたのである。お高は、人のいない空地に何かのうごきが眼にはいったので、そのまま磯屋の天水桶のかげにたちどまってそっちのほうを見た。
磯五が、誰か若い女と話しこんでいた。向こうからは磯屋の陽影になっていて見えないのだが、こっちからは、板と板の合わさっている角度によって、よく見えるのだ。磯五と女は、見ている者がないと安心して、抱き合わんばかりにからだを寄せて、何か熱心に話し合っては、声を殺して笑っているのである。
女は、芸者にしてはけばけばしい姿《なり》をしているが、どこか素人《しろうと》らしくないところの見えるのは、女|歌舞伎《かぶき》の太夫《たゆう》ででもあろうかとお高は思った。黒い豊かな髪をきれいに取り上げた、すんなりと背の高い女だ。笑うたびに肩から腰を大ぎょうに波うたせて、色好みの男の玩弄《おもちゃ》にまかせてきたらしい、しなやかな胴である。
いやみった
前へ
次へ
全276ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング