様を見て、むりににっこりした。
金雀枝《えにしだ》
一
一空さまは、鳥獣のような、自然に即した生活をしていた。それは、およそ贅沢から遠いものだった。壁とたたみと天井のほか何一つない洗耳房なのだ。金剛寺境内の樹木が、高塀のようにそれを囲んでる。
一空さまは、若松屋のお高が雑司ヶ谷の鬼子母神へお詣りに行った翌朝、房の縁に座を組んで、日光に顔を向けていた。いつでも、どこででも、独居していても人中でも、随意に坐禅《ざぜん》の三昧《さんまい》に沈入するのが、一空さまなのだ。
からりと晴れた日だ。土が光って、陽に夏のにおいがしてる。一空さまは眼をあげて、膝もとに置いてあった手紙を拾い上げた。一空さまの眉《まゆ》が寄るのは、お高に会って、それから柘植の一家と、ことに、彼女の母のおゆうのことの出たのを、いまだに奇縁に思っているのだ。この柘植一族の神秘を解くためには、古い書き物をあさったり、あちこち歩いて人に会ったりしなければならない。
一空さまは、金剛寺へ出入りする棟梁《とうりょう》に、和泉屋の本店はどこにあるのか調べてくれと頼んでおいたのが、けさ、その棟梁のもとから若い衆が返事の手紙を持って来て、神田鍛冶町《かんだかじちょう》二丁目の裏に当たる不動新道《ふどうしんみち》の和泉屋が総本家だと知れたので、これからそこへ出かけて行こうとしているところだ。
出かけて行って、どう切り出したらいいか。一空さまは、それを考えていた。が、それはそのときのことにしようと決心して、はだしに高下駄を突っかけて金剛寺の楼門《さんもん》を出た。微風が、お衣の袖にはらんで、一空さまは、爽々《そうそう》と歩いて行った。一空さまが、通新石町《とおりしんこくちょう》から馬鞍横町《ばくらよこちょう》へ折れて、小柳町《こやなぎちょう》、鍋町《なべちょう》東横丁《ひがしよこちょう》と過ぎて不動新道へはいると、和泉屋の総本店はすぐ眼についた。
左側の大きな老舗《しにせ》だ。やはり日用の雑貨をひさぐ店なのだ。
一空さまは土間に立って、立ち働いている番頭手代を見まわした。そのうちのひとりに、ちょっと話したい用があるというと、それは伊之吉《いのきち》という大番頭であった。伊之吉は一空さまをじろじろ見たのち、急に愛想《あいそう》よく招じ上げて、店の裏の小座敷へ案内して行った。そこは、畳
前へ
次へ
全276ページ中189ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング