口笛を吹く武士
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)師走《しわす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)風声|鶴唳《かくれい》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]
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無双連子
一
「ちょっと密談――こっちへ寄ってくれ。」
上野介護衛のために、この吉良の邸へ派遣されて来ている縁辺上杉家の付家老、小林平八郎だ。
呼びにやった同じく上杉家付人、目付役、清水一角が、ぬっとはいってくるのを見上げて、書きものをしていた経机を、膝から抜くようにして、わきへ置いた。
「相当冷えるのう、きょうは。」
「は。何といっても、師走《しわす》ですからな、もう。」
小林が、手をかざしていた火桶を押しやると、一角は、それを奪うように、抱きこんですわった。
「用というのは、どういう――。」
上杉家から多勢来ている付け人のなかで、この二人は、よく気が合っていた。身分の高下を無視して、こんな、ともだちみたいな口をきいた。
朱引きそとの、本所松阪町にある吉良邸の一室だった。
小林は、しばらく黙っていたが、
「念には、念を――。」
と、いうと、起ち上って、縁の障子や、隣室のさかいの襖を、左右ともからりと開けはなして、うふふと苦笑しながら座にかえった。
庭から、さらっとしたうす陽が、さし込んだ。
一角が、
「だいぶ物ものしいですな。」
重要なことをいう時の、この人の癖で、小林は、にこにこして、
「この、裏門のまえに、雑貨商があるな。御存じかな?」と、覗くように一角の顔を見て、はじめていた。「米屋五兵衛とかいう――あれは、前原といって、赤穂の浪士だと密告して来たものがあるが。」
一角は、笑った。
「またですか。私はまた、この本所の万屋で小豆《あずき》屋善兵衛というやつ、それがじつは、赤浪の化けたのだと聞かされたことがあります。たしか、かんざし四《よ》五郎とか、五五郎とか――しかし、埓《らち》もない。そうどこにも、ここにも、赤浪が潜んでおってたまるものですか。そんなことをいえば、出入りの商人や御用聞きも、片っ端から赤浪だろうし、第一、そういうあなたこそ、赤穂浪士の錚々たるものかも知れませんな、あっはっはっは、いや、風声|鶴唳《かくれい》、風声鶴唳――。」
小林は、手文庫から、元赤穂藩の名鑑を取り出して、畳のうえにひろげて見ていたが、つと一個処を指さして、
「ほら、ここにある。前原|伊助《いすけ》宗房《むねふさ》、中小姓、兼金奉行、十石三人扶持――。」
二
一角は、貧乏ゆすりのように、細かく肩を揺すって、口のなかで呟いていた。
「清水一角、とはこれ、世を忍ぶ仮りの名。何を隠そう、じつを申せば浅野内匠頭長矩家来――などということに、そのうちおいおいなりそうですな、この分ですと。はっはっは。」
が、かれは、小林の真剣な表情に気がつくと、名鑑のうえに眼を落として、
「ふうむ。で、この前原というのが、あのうら門まえの米屋だという確証は、挙がっているのですな。それなら、今夜にでも、ぶった斬ってしまいますが。」
「まあ、待て。こっちのほうは、いま星野に命じて探りを入れさせている。」
「では、その報告を待ってからのことに――だが、どうも私は、皆すこし、神経過敏になっているように思う。」
「しかし、清水、暮れに近づいたせいか、何かこう、世上騒然としてまいったな。」
「そういわれると、」と、一角は、微笑して、刀をかまえる手真似をした。「近いうちにあるかもしれませんな、これは。」
「うむ。それについてだ。」
小林は、膝をすすめて、
「君の兄貴の狂太郎君、ぜひあの狂太郎君の出馬を仰ぎたいと思ってな――。」
一角も、火桶ごしに乗り出して、小林の口へ耳を持って行った。
密談が、つづいた。
元禄十五年、十二月四日だ。
三
「兄者、兄者っ――!」
清水一角の武骨な手が、きょうも朝から食《く》らい酔って大の字形に寝こんでいる、兄狂太郎のからだに掛かって、揺り起そうとした。
「兄者! またか。夜も昼も食べ酔って、困った仁《じん》じゃなどうも。」
一角は、黒羽二重の着流しの下に、紐で結んだ刺子の稽古着の襟を覗かせて、兄の顔のうえに、かがみこんだ。
常盤橋《ときわばし》際《ぎわ》から、朱引き外の本所松阪町へ移った吉良家門内の長屋で、一角はいま、小林の許を辞して、この、じぶんの住いへかえってきたところだ。
無双連子《むそうれんじ》の窓から、十二月にはいって急に冬らしくなった重い空が、垂れ下がって見えて、水のような日光がひたひたと流れこんでいる。
奥ざしきとはいっても、玄関から二た間目の、そこの三尺の縁に、かたちばかりの庭がつづいて、すぐ眼のまえに屋敷をとりまくなまこ塀の内側が、圧《お》すように迫っている部屋である。
床の間のふちに後頭部を載せて、赤く変色した黒紋つきの襟をはだけ、灰いろによごれた白|袴《ばかま》の脚を投げ出して、一角の兄、清水狂太郎は、ぐっすり眠っていた。
線の険《けわ》しい、鋭角的な顔だ。まだ四十になったばかりなのに、だらしなくあいた胸元に覗いている黒い、ゆたかな胸毛のなかに、もう一、二本、白く光るのがまじっているのを見つけると、一角は、この、放蕩無頼《ほうとうぶらい》で、人を人とも思わない変りものの兄が、何となく、ちょっと可哀そうに思われて来た。
その瞬間、老驥《ろうき》ということばが、一角のあたまのなかに、想い出された。老驥《ろうき》、櫪《れき》に伏す。志は千里にあり――そんなことを口の奥にくり返して、急にかれは、この厄介者の狂太郎に対して不思議に、いつになくやさしい、センチメンタルな気もちにさえなって往った。
「兄貴、起きてくれ。話しがあるのだが――弱ったなあ。」
舌打ちをすると、眠っているとばかり思っていた狂太郎の口が、動いて、
「おれの耳は、縦になっていようと、横になっていようと、同じに聞えらあ。」
一角は、どんと激しく畳に音を立てて、すわり直した。
「こん日も、小林殿より内談があった。」
当惑しきったという顔で、一角は、語をつないで、
「例によって、今までたびたび取り沙汰された、無論、一片の風説に過ぎますまい。」
「何が――?」
「が、赤穂の浪人めらが、近く御当家を襲撃するらしいといううわさは、依然としてひそかに、巷《ちまた》に行われているというのです。」
「そうだったな。そいつを聞いて、おれも、呆れけえってる始末よ。」
「あきれ返るのは、こっちです!」
「何だ、出しぬけに。」
「ですから、このさい、ことに上杉家から来ておるわれわれは、御家老千阪様の恩顧《おんこ》に報いるためにも、ああして一同、夜を日に継いで、赤浪の動静探索に出ておるのに、兄者ひとりが、こうやって、ごろごろ――。」
「うるさいっ!」
狂太郎は、ごろっと、寝がえりを打った。
雑魚《ざこ》一匹
一
「兄貴の呑《のん》気にも、泣かされますな。すこしは、舎弟の身にもなってもらいたい。小林殿に対して、じつに顔向けならん仕儀だ。」
「何をいってやがる。てめえのあ、顔って柄じゃあねえ。そんな面《つら》あ、誰にだって向けられるもんか。」
「千阪様の御推挙によって、目付役として来ておる拙者であってみれば、大須賀、笠原、鳥井、糟谷、須藤、宮右をはじめ、松山、榊原、それに、和久半太夫、星野、若松ら――あの連中を懸命に督励して、せっせと赤浪どものうごきを探らねばならぬ。また事実、みな必死に働いてくれておるのに、それに率先《そっせん》すべき身でありながら、兄貴ばかりは、そうやって、無精《ぶしょう》ひげを伸ばして――。」
狂太郎は、頬から頤へ手をやって、撫ででみた。
やすり紙で軽石をこするような、ざら、ざらと、大きな音がした。
一角が[#「 一角が」は底本では「一角が」]、つづけて、
「熟柿《じゅくし》くさい息をして――。」
はあっと息を吐いて、狂太郎は、それを追うように鼻をつき出して、においを嗅いだ。
「眼ざわりでござる!」
呶鳴った弟の声に、狂太郎は、むっくり起き上った。
「大きな声だな。寝てもおられん。」
きょとんとした円顔で、不思議そうに、一角を見つめた。
「ううい、どうしろというのだ。」
「じつにどうも、度しがたいお人ですな。吉良殿を護るために、赤浪ばらの策動を突きとめていただきたい。これは、付け人として当然の任務ですぞ。」
「大丈夫。攻めてなんぞ来はせんよ。また、来たら来たで、その時のことだ、あわてるな、狼狽《あわ》てるな。」
「何をいわれる! 隠密の役目は、あらかじめ――。」
「隠密? この、おれが、か?」
「さよう。」
「間者だな。」
「さようっ!」
「密偵だな、早くいえば。」
「くどいっ!」
「犬じゃな、つまり――犬、猫、それから、男妾には、なりとうないと思っておったが――。」
「何をいわれる。誰が兄貴を、男めかけにする女《もの》があります。」一角は、とうとう笑い出して、「犬、猫などと、見下げたようなことをおっしゃるが、兄貴は、それこそ犬、猫のごとくに――。」
狂太郎は、眼をしょぼしょぼさせて、
「まあ、それをいうな。」
「いや、いいます。あまりだからいうのです。まるで犬、猫のように、雨露をしのぐ場所もなく、尾羽《おは》うち枯らして放浪しておられた――。」
「今だって、尾羽うち枯らしておらんことはないよ。」
「自慢になりません!」
一角は、たまらなく焦《いら》いらして来て、そこに、まぐろが胡坐《あぐら》をかいたように、ぬうっと済ましてすわってるこの狂太郎を、力いっぱい突き飛ばしてやりたくなった。
二
「その、失礼ながら困っておられた兄者を、拙者が引き取って、こちらへおつれ申すとき、兄者は何といわれた。」
「四十余年、老|措大《そだい》――ってなことでも、口ずさんだかな。よく覚えておらん。」
「これからは、心気一転して、おおいに天下に名を成すよう、まず、振り出しに、この、吉良殿の護衛として、十分に働いてみると、あんなにお約束なすったではないか。」
それは、事実なのだった。
狂太郎も、すこし降参《まい》った表情で、がりがり大たぶさのあたまを掻いて、白いふけを一めんに飛ばしながら、
「ちょ、ちょっと待った! 腹の空いておったときにいったことは、言質《げんち》にならんぞ。」
「かねがねおすすめしてあるとおりに、これを機会に、千阪様に知られて、小林殿の取り持ちで、上杉家へ仕官なさるお気はないのか。」
「ないことも、ない。」狂太郎は、困ったように、「が、この年齢《とし》になって、宮仕えというのも――三日やると、止められんのが、乞食と居候の味でな。」
一角は、握り拳をつくって、肘を張って、詰め寄るのだ。
「その、ありあまる才幹と、不世出[#「不世出」は底本では「不出世」]の剣腕とをもちながら――。」
「や! こいつ、煽《おだ》てやがる。」
「そうして年が年中ぶらぶらしておられるのは――いったい、どこかお身体《からだ》でもお悪いのか。」
「ううむ。どこも悪うはない。ただ、酒が呑みたい。これが、病いといえば、病いかな。」
「さ、ですから、ここで一つ働きを見せて、千阪様に認められ、上杉家に抱えられて、相当の禄を食み、うまい酒をたんまり――と、拙者は、こう申し上げるので。いかがでござる。」
「それも、そうだな。」狂太郎は、とろんとした眼つきで、「わかっておるよ。人間、食わしてくれるやつのためには、何でもする。いや、何でもせんければならんことに、なっておるのだ。これを称して忠義という。なあ、赤穂の浪人どもが、小うるせえ策謀をしておるのも、忠義なら、それを防がにゃならんこっちも、忠義だ。忠義と忠義の鉢合わせ。ほんに、辛い浮世じゃないかいな、と来やがらあ―
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