ことはないよ。」
「自慢になりません!」
 一角は、たまらなく焦《いら》いらして来て、そこに、まぐろが胡坐《あぐら》をかいたように、ぬうっと済ましてすわってるこの狂太郎を、力いっぱい突き飛ばしてやりたくなった。

      二

「その、失礼ながら困っておられた兄者を、拙者が引き取って、こちらへおつれ申すとき、兄者は何といわれた。」
「四十余年、老|措大《そだい》――ってなことでも、口ずさんだかな。よく覚えておらん。」
「これからは、心気一転して、おおいに天下に名を成すよう、まず、振り出しに、この、吉良殿の護衛として、十分に働いてみると、あんなにお約束なすったではないか。」
 それは、事実なのだった。
 狂太郎も、すこし降参《まい》った表情で、がりがり大たぶさのあたまを掻いて、白いふけを一めんに飛ばしながら、
「ちょ、ちょっと待った! 腹の空いておったときにいったことは、言質《げんち》にならんぞ。」
「かねがねおすすめしてあるとおりに、これを機会に、千阪様に知られて、小林殿の取り持ちで、上杉家へ仕官なさるお気はないのか。」
「ないことも、ない。」狂太郎は、困ったように、「が、この年齢《とし》になって、宮仕えというのも――三日やると、止められんのが、乞食と居候の味でな。」
 一角は、握り拳をつくって、肘を張って、詰め寄るのだ。
「その、ありあまる才幹と、不世出[#「不世出」は底本では「不出世」]の剣腕とをもちながら――。」
「や! こいつ、煽《おだ》てやがる。」
「そうして年が年中ぶらぶらしておられるのは――いったい、どこかお身体《からだ》でもお悪いのか。」
「ううむ。どこも悪うはない。ただ、酒が呑みたい。これが、病いといえば、病いかな。」
「さ、ですから、ここで一つ働きを見せて、千阪様に認められ、上杉家に抱えられて、相当の禄を食み、うまい酒をたんまり――と、拙者は、こう申し上げるので。いかがでござる。」
「それも、そうだな。」狂太郎は、とろんとした眼つきで、「わかっておるよ。人間、食わしてくれるやつのためには、何でもする。いや、何でもせんければならんことに、なっておるのだ。これを称して忠義という。なあ、赤穂の浪人どもが、小うるせえ策謀をしておるのも、忠義なら、それを防がにゃならんこっちも、忠義だ。忠義と忠義の鉢合わせ。ほんに、辛い浮世じゃないかいな、と来やがらあ――どっこいしょっ、と。」
 立てた片膝に両手を突っ張って、狂太郎は、起ち上っていた。
「まいるぞ。」
「どこへ、兄者――。」
「兄者、兄者と、兄者を売りに来てやしめえし――停めるな。」
「うふっ、留めやしません。」
「いずくへ? とは、はて知れたこと。隠密に出るのだ。あんまり、柄に適《はま》った役割りでもねえがの。」
「というと、いずれかの方面に、何かお心当りでもおありなので――。」
「ねえんだよ、そんなものあ。」
 いいながら、狂太郎は、馬鹿ばかしく長い刀を、こじり探りに落とし差して、
「だが、犬も歩けば棒に当たる。あばよ。」
 もう、土間へ下り立っていた。
 そして、うら金のとれた雪駄《せった》をひきずって、すたすた通用門へかかると、
「通るぞ。雑魚一匹!」
 破れるような声で門番の足軽へ呶鳴って、さっさと松阪町のとおりへ出た。


   綿流し独り判断

      一

 が、すぐ門のそとに立ちどまって、往来の左右へ眼をやった。
 年の瀬を控えて、通行人の跫音のあわただしい街上だ。
「東西南北――はて、どっちへ行ったものかな?」
 笑いをふくんだ眼で、狂太郎はそうひとり言をいって首を傾げた。
 鍔擦《つばず》れで、着物の左の脇腹に、大きな穴があいて、綿がはみ出ている。
 狂太郎は、その綿を、二つまみ三摘み※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り取って、ふっと吹いてみた。
 あるかなしの風。綿は、その風に乗って、白い蛾のように空《くう》に流れた。
 本所二つ目の橋のほうへ飛んだ。
「東か――。」ぶらりと歩き出した。「そうだ。面白い。ひとつ、東海道筋へ出張《でば》ってやれ。」

      二

 海が見える。灰いろの海だ。舟が出ている。道は、ちょっと登りになって、天狗の面を背負った六部がひとり、町人ていの旅ごしらえが二人、せっせといそぎ足に、ひだり手には、杉、欅《けやき》の樹を挾んで、草屋根の檐《のき》に赤い提灯をならべ、黒ずんだ格子をつらねた芳屋、樽や、玉川などの旅籠《はたご》に、ずっこけ帯の姐さんたちが、習慣的な声で、
「お泊りさんは、こちらへ――まだ程ヶ谷までは一里九丁ござります。」
「仲屋でございます。お休みなすっていらっしゃいまし。お茶なと召しあがっていらっしゃいまし。おとまりは、ただいまちょうどお風呂が口あきでございます。」
 神奈
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