この男売物」と読める。
男は、その「売りもの」貼り紙を背なかにしょって、大威張りで歩いているのである。
新六も、いっしょに笑い出して、
「何だい、あいつぁ。狂人《きふれ》か。」
といった、その、気ちがいかというのが、ちょっと声が高かった。ちょうど真下をとおりかかっていた男に聞えて、かれは、立ち停まって振り仰いだ。
大たぶさに結《と》り上げ、赫《あか》ぐろい、酒やけのした顔で、長身の――清水狂太郎なのだ。
かれは、何がな人眼をひく方策を編み出し、それによって、この街道すじの旅人のあいだに、なにか口を利く機会をつくろうと、いろいろ考えた末、この貼紙を思いついて、江戸から来るこの一つ手まえの宿、川崎の立場茶屋で、半紙を貰い、墨を借りて、これを書いたのだった。
そして、飯粒で、その紙看板を紋つきの背に貼りつけて、往き来の人の驚愕と、憫笑《びんしょう》に見迎え、見送られながら、こうしてこの神奈川まで来かかったところだった。
眼のまえの、佐原屋とある宿屋の二階をふり仰ぐと、町人の男がふたり、欄干から見おろしてにやにや笑っているので、狂太郎は、待ちかまえていたように、ぐっと瞳《め》を据えて睨みあげた。
「こら、てめえら、笑ったな。何がおかしい! 貴様ら素町人に、吾輩の真意がわかるか。禄を失って路頭に迷えばこそ、恥を忍び、節を屈して、かくは自分を売りに出したのだ。何とかして食おうとする人間の真剣な努力が、何でそんなにおかしいのだ、ううん?」
「お侍さん、何ぼお困りでも、あんまり酔狂《すいきょう》が過ぎましょうぜ。」
急に町人めかした口調で、そういい出した唯七の袖を、新六は、懸命に引いて、
「止せ。相手になるな。変に文句をつけられると、うるさいから。」
下では、狂太郎が、大声に、
「この男売りものてえのを笑う以上、お前たちに買う力があるのであろう。よし。そんなら一つ、おれをこのまま、買ってもらうことにする。」
許せ――と、聞こえて、その、あぶれ者の浪人は、もう、佐原屋の土間口へ踏みこんだ様子だ。
二
垣見吾平、左内の大石父子と、小野寺十内は、初対面らしくよそおって、それぞれ身分を明かしなどしてから、道中の話しや、これから下って行く江戸の噂や、わざと大声に、雑談に耽っていた。
すこし離れた、はしご段のとっつきの小暗い一間から、
「だからよ、いわね
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング