川の宿だ。その中ほどに、掛け行燈《あんどん》の下に大山講中、月島講中、百味講、神田講中、京橋講中、太子講――ずらりと札の下がったわき本陣、佐原屋は今日、混んでいた。その、裏二階の一室に、障子をとおして、しずかな声がする。
「いや、江戸に公事《くじ》用がありましてな、これは、訴訟ごとに慣れませんので、伯父のわたくしが、後見役に出府することになりましたわけで、はい。」
 といっている、四十四、五のでっぷりした、温厚な人物は、近江の豪農、垣見吾平という触れ込みで泊まりこんでいる大石|内蔵助《くらのすけ》である。
 かれの甥、垣見左内と変称して、そばでにこにこしている少年は、主税《ちから》だ。ゆうべこの宿の風呂場で近づきになったというカムフラアジで、いま此室《ここ》へ茶菓を運ばせて話しに来ている老人は、土佐の茶道と偽っている同志中の元老、小野寺十内だった。
「変りましたでございましょうな、江戸も。」
「さ、手まえは、しばらく振りの、まったく、三年目の江戸でござりましてな。初下りも同然で――。」
「こちらは、はじめて――。」
「甥はもう、臍《ほぞ》の緒切っての長旅でござりまして、はい。」
 廊下を通る人影を意識して、聞こえよがしの高ばなしだ。


   この男売り物

      一

「ほ! 何だ、ありゃあ。」
 佐原屋の二階の、おもて欄干《らんかん》に腰かけていた武林唯七が、感心したような大きな声を上げた。
「おい、ちょっと来て見ろ。」
 この数カ月武林は、大阪にかくれていた原惣右衛門、京都に潜んでいた片岡源吾、それから、江戸の堀部安兵衛らと、ひそかに、あちこち往来して、一挙の時期を早める硬論を唱道してきたのだ。それが、こうして纏《まと》まって、かれは、すっかり町家の手代風に変装し、いま江戸へ上る途中なのだった。
 同じ商人ていにつくった間《はざま》新六《しんろく》は、部屋のまん中に、仰むけに寝そべっていたが、
「美《い》い女でもとおるのか。」
「いや、驚いた。なんでもいい。来てみろ早く。」
「騒々しいやつじゃな。」
 と、起って来た。
 唯七は、笑いながら、しきりに眼下《した》の往還を指さしている。
 男が通っているのである。浪人体の武士である。その背中に、「この男売物」と大きく書いた半紙が、貼ってあるのだ。
 白い紙に、墨黒ぐろと――いかにも変な文句。が、何度見ても「
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