―どっこいしょっ、と。」
 立てた片膝に両手を突っ張って、狂太郎は、起ち上っていた。
「まいるぞ。」
「どこへ、兄者――。」
「兄者、兄者と、兄者を売りに来てやしめえし――停めるな。」
「うふっ、留めやしません。」
「いずくへ? とは、はて知れたこと。隠密に出るのだ。あんまり、柄に適《はま》った役割りでもねえがの。」
「というと、いずれかの方面に、何かお心当りでもおありなので――。」
「ねえんだよ、そんなものあ。」
 いいながら、狂太郎は、馬鹿ばかしく長い刀を、こじり探りに落とし差して、
「だが、犬も歩けば棒に当たる。あばよ。」
 もう、土間へ下り立っていた。
 そして、うら金のとれた雪駄《せった》をひきずって、すたすた通用門へかかると、
「通るぞ。雑魚一匹!」
 破れるような声で門番の足軽へ呶鳴って、さっさと松阪町のとおりへ出た。


   綿流し独り判断

      一

 が、すぐ門のそとに立ちどまって、往来の左右へ眼をやった。
 年の瀬を控えて、通行人の跫音のあわただしい街上だ。
「東西南北――はて、どっちへ行ったものかな?」
 笑いをふくんだ眼で、狂太郎はそうひとり言をいって首を傾げた。
 鍔擦《つばず》れで、着物の左の脇腹に、大きな穴があいて、綿がはみ出ている。
 狂太郎は、その綿を、二つまみ三摘み※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り取って、ふっと吹いてみた。
 あるかなしの風。綿は、その風に乗って、白い蛾のように空《くう》に流れた。
 本所二つ目の橋のほうへ飛んだ。
「東か――。」ぶらりと歩き出した。「そうだ。面白い。ひとつ、東海道筋へ出張《でば》ってやれ。」

      二

 海が見える。灰いろの海だ。舟が出ている。道は、ちょっと登りになって、天狗の面を背負った六部がひとり、町人ていの旅ごしらえが二人、せっせといそぎ足に、ひだり手には、杉、欅《けやき》の樹を挾んで、草屋根の檐《のき》に赤い提灯をならべ、黒ずんだ格子をつらねた芳屋、樽や、玉川などの旅籠《はたご》に、ずっこけ帯の姐さんたちが、習慣的な声で、
「お泊りさんは、こちらへ――まだ程ヶ谷までは一里九丁ござります。」
「仲屋でございます。お休みなすっていらっしゃいまし。お茶なと召しあがっていらっしゃいまし。おとまりは、ただいまちょうどお風呂が口あきでございます。」
 神奈
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