っけにとられた人々の顔が、まわりにあった。
 吉良は口がきけなかった。なんという暴!――もはや、これまでだと思った。
「美濃、待てっ!」
 叫んだ――ような気がした。同時に、家を捨て、身を忘れて、腰の小さな刀に手を――かけた自分を、とっさに、想像してみた。
 美濃守は、すでに、平気で、むこうへ歩いて行こうとしていた。
 刃傷《にんじょう》だった。吉良は、それを、一瞬にこころに描いた。
 殿中だった。松の廊下だった。たとえ誤ちでも、鯉口《こいぐち》三寸ひろげれば、大変なことになるのだった。
 が、勘忍《かんにん》ぶくろの緒《お》が切れた。じぶんは、どうなってもよかった。乱心といわれても、切腹でも、そんなことは、かまっていられなかった。
 吉良は、心中に、刀を抜いた。そして、恨み重なる美濃守へ斬りつけるところを、考えた。
 松の廊下――ちょうど、隅の柱六本目のかげだった。
 初太刀《しょだち》は、烏帽子の金具に当って、流れた。二の太刀は、伸びて肩先へ行った。
 美濃は、逃げようとして、戸にぶつかって倒れた。起き上ろうとするところを、ここだ、と振り下ろしたが、その時、吉良は、うしろから、しっかり抱きとめられているのを知った。梶川《かじかわ》与惣兵衛《よそべえ》だった。大力の人で、すっかり羽掻《はが》い締《じ》めに、うごきが取れなかった――吉良は、身をゆすぶった。
「残念――。」
「いかがめされた、吉良殿!」
 ゆらゆらと立っていた吉良だった。梶川与惣兵衛が、にこにこして、うしろから手を廻して支えていてくれた。
「抛《ほう》り上げられて、眼が廻ります。どうも乱暴だ。」
「いくら天奏衆の御機嫌を取り結ぶのが饗応役とはいえ、御老体を――。」梶川は笑った。「歩けますかな?」
 吉良も、仕方なしに、苦笑していた。
「まったく、美濃殿は、いささか荒いようです。」
 勅使に随《つ》いて、廊下の端に、美濃守のすがたが小さく見えていた。



底本:「一人三人全集2[#「2」はローマ数字、1−13−22]時代小説丹下左膳」河出書房新社
   1970(昭和45)年4月15日初版発行
入力:奥村正明
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
2008年3月28日修正
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