。
扇工は、その、指南書のさきを読みつづけた。
「大理石の様模《はだ》をあたうるには、随意《おもう》ところの一色を塗り、これに脈理を施して天然のものに擬《まぎら》し、後に落古《ラッカ》を被《き》せて艶《つや》出しするを善《よし》とす――。」
そして、この式にしたがって、扇の骨に加工しているのだった。
それができ上れば、吉良の意に任す――それまでは、枕を交《かわ》すことはできない、と、糸重が、難題として、吉良に持ちかけた扇子なのだった。
風流人をもって自ら許している吉良だった。この糸重の申し出を、面白い――と笑って、さっそく御影堂へ注文しないわけにはいかなかった。
義兄美濃守が、無事に饗応役を果すまで――それまでにでき上らない扇でさえあれば、何でもよかった。なるたけ時日の費《かか》りそうな、むずかしい扇を、でたらめに考え出した。扇が、例の扇箱に納められて、吉良から下げられない前に、美濃守は、役目を解かれるに相違なかった。そうすれば、糸重は、そっと吉良から脱けて、元のままのからだで辰馬の許へ帰れるはずだった。
吉良は、この扇のことを、女との交渉のまえの、ちょっとした遊戯として、興がっていた。
毎日のように、御影堂へ催促が飛んだ。もうできかかっているのだった。
四
立花出雲守の使者に渡すはずのお次第書を、糸重は、こっそり懐中していた。
お次第書は、追加の御沙汰といって、当の式の順序を認《したた》めた、重要な書類だった。饗応役のもっとも大切な一日を、具体的に説明しているものだった。
人気《ひとけ》のないのを見すまして、背戸の柴折《しお》り戸をあけた。
いつものように、宵闇に紛《まぎ》れて、折助《おりすけ》すがたに装《つく》った辰馬が、ぼんやり佇《た》っていた。
手早く、お次第書を渡しながら、糸重が、
「これは、饗応役の一ばん大事の日のことを、細ごまと書いた、申せば、お役のこつ[#「こつ」に傍点]なそうにございます。立花様から受取りに来られれば、失くなったことがわかって、おっつけ騒ぎになりましょう。」
辰馬は、頬被りの奥から、
「ほかに、心得は?」
「当日は、必ず大紋烏帽子《だいもんえぼし》のこと――。」
「その他――気が急《せ》く。」
垣根を離れて、行こうとするので、
「それから勅使院使さまがお上りのとき、吉良とお取持役おふたりが
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