郎兵衛は、それが癖のもったいらしく咳払いをして、ついでに、
「御免。」
 と言った。
 この御免をきっかけに、彼は帛《ふくさ》を持ち添えて中心《こみ》に手を掛けた。それから注意ぶかく光線をうしろに据わりなおした。そして、刀身をまっすぐ竪にし、刃文《もよう》を照らしながら、焼刃《やいば》の差し表を、※[#「金+祖」、第3水準1−93−34]元《はばきもと》から一分刻みによく見て、こんどは裏を返して、次に平鎬棟《ひらしのぎむね》などを、考え考え眺め出した。
 お刀拝見の定法である。
 これで十郎兵衛がまことの具眼者ならば、刃の模様は五《ぐ》の目か丁子か、逆心《さかごころ》があるかないか直刃に足があるかないか、打ちよけや映りなどの有無、においの工合い、全体の恰好なんかで、当らずといえども遠くないところ、さしずめ目下にしてみれば、粟田口か青江か、それともほかの何人《たれ》かか、がちゃん[#「ちゃん」に傍点]と言えるはずなんだが、儀式だけは心得ているからけっして二、三度裏表をかえしたり同じ個所《ところ》を見直したりするような、嫌がられこそはしないものの、早く言えば法どおりに扱かっているだけのことで、この安斎十郎兵衛、じつはいたって眼がきかないときているから、いやはやなんとも心細いかぎりだ。
 しかし、藩中に刀剣の鑑定家をもって自他ともに許している寺中甚吾左衛門をことごとに打ち負かしたのは、今日の安斎十郎兵衛である。おまけに、こう斜《しゃ》にかまえて、延べ鏡のような刀身を陽にすかして、ためつすがめつしているようすが、どうも十郎兵衛をこの上ない眼ききのように見せるからたまらない。一同声を呑んで十郎兵衛の言葉を待っている。
 ところが十郎兵衛、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]とも言わない。なに、じつは何にも言うことがないので、そのかわり、しきりに人のわるいことを考えている。
「これは困ったことになったな。まぐれ当りに好い点を取って来たのはいいが、ここでへま[#「へま」に傍点]をやっちゃあすっかりお里が知れてしまう。なんとかうまい工夫はないものかしら。今まで寺中にさからって当ったんだから、今度も一つ逆に出てみようか。ふふふ、すると甚吾のやつめ、なんのことはない俺に正案《しょうあん》を教《きょう》しているようなものだて、うふっ。」
 と、表むきはえらそうに刃すじを見守っていると、刀身の三分の二手元へ近い、その道で腰と称するところに、横にかすかに疵があるのが眼についた。さっき甚吾が切込みと指摘したのはこれである。
 切込みとは戦場で敵の刀を受けた痕のことで、疵は疵だが賞美すべきもの。だが、ここに、この切込みに似ておおいに非なる純粋の疵に、刃切れというのがある。これはすべて横にある焼疵で、一つでも結構ありがたくないが、こいつがいっしょに幾つもあると、それを百足《むかで》しなん[#「しなん」に傍点]と呼んで、ことある際に折れるかもしれぬとあってもっとも忌みきらったものだ。
 いま十郎兵衛が、この疵を見ていると、だんだんそれが、切込みではなくて、刃切れも刃切れ、百足《むかで》しなん[#「しなん」に傍点]のように思えてきた。
「はてな。」
 と彼は大仰に眉をひそめた。
「どうじゃ、粟田口であろう。」
 甚吾が詰め寄る。
「その切込みは――。」
「これは切込みではござらぬ。」
 あんまりきっぱり[#「きっぱり」に傍点]した自分の言葉に、十郎兵衛は自分で驚いた。が、それと同時に、すっかり度胸が据わって、
「これはこれ、百足じゃ。百足を切込みと見誤るなぞ、寺中、常の貴公らしゅうもない。外《はず》れつづきに、なんだなすこうし逆上《のぼ》せかげんじゃな。笑止はっはっはっはっ。」
 笑ってしまってから、これはすこし過ぎたかな、と思ったが、もう遅い。怒ると吃《ども》る癖のある甚吾は、
「な、な、な、な――。」
 と首を振り立てた。そこを、
「青江じゃ。為次じゃこれは。」
 と十郎兵衛は会主を見た。すると、不思議なことには、会主がにっこり頷首《うなず》いたものだ。
 また、十郎兵衛の半あてずっぽうが的中したのである。
 今日はみょうな日だな――十郎兵衛は思った。そして、よせばいいのに、かれ一流の皮肉に見える微笑みとともに、
「寺中、もはや兜を脱いだがよかろう。」
 と言いかけると、
「ぶ、ぶ、ぶ。」
 無礼者とか何とか言うつもりだったんだろう、甚吾が口早に吃った。それがおかしかったので、父親の葬儀で読経中に吹き出したほどの十郎兵衛だから、思わずぷっ[#「ぷっ」に傍点]と噴飯してわっはっは[#「わっはっは」に傍点]と笑おうとした。
 甚吾の手がむずと面前《まえ》の茶碗を掴んだ。一同ちょっと膝を立てた。十郎兵衛は笑いを引っこめた。
「貴公、それを俺に、投げ
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