! 抜いたついでだ。見てやる。これ! 見せろっ!
郁之進 いえ、いえ――。(逃げようとする)
播磨 かまわぬ見せろというに!
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と刀を取ろうとする途端、不意に、何ものか乗り移ったごとき郁之進、すらりと右手に景光を抜き放つ。
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加世 あれ!
郁之進 家宝の一刀に由なき傷をつけたのみか、こ、この私めが、あろうことか、殿に対して害心を蔵するようなかの奎堂の言い草。彼をこのままにさしおいては、臣下の一分が立ちませぬ。この郁之進の胸が納まりませぬ。おのれ! 久保奎堂を真っ二つに――。
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憑《つ》きものでもしたように、抜刀を提げたまま、よろよろと廊下へ出ようとする。
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播磨 待て! (追い縋《すが》って留める)
郁之進 (争って)いえ、この多門三郎景光、はたして凶相か吉相か、久保奎堂の身体《からだ》に問うてみるのですっ! 殿、お放し下さいっ。
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刀を振り被《かぶ》って行かんとする。立ち塞がる播磨守を払い退けようとして、その拍子に、まるでひとりでに手が動いて、横殴りに一刀深く斬りつける。
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播磨 (脇腹を押さえて、後退《たじろ》ぐ)や! き、斬ったな――。
加世 (転び寄って郁之進に縋りつく)あなた! ま、そのお刀を――。
郁之進 (呆然と驚きあわてて)ややっ! こりゃ殿を――しまった! あ、ああどうしたらよいやら。
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と刀を凝視《みつ》めると、またふらふらっ[#「ふらふらっ」に傍点]となって、真っ向から播磨守に二の太刀を浴びせる。薄く小鬢を掠める。
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郁之進 (自ら愕然として)やっ、また! おお、この刀は魔性だ! 心にもなく手が滑って、二度までも――殿、御免なされて――。(刀を投げ捨てて、倒れた播磨守を抱き起す)ああ、これはいったいどうしたというのだ。殿! お傷は軽うございます。し、しっかり遊ばして!
播磨 なんの、これしき! ううむ、そうか。主《しゅう》に仇《あだ》なす多門景光――ははははは、斬れ斬れ! だが、郁之進、この加世を、この加世をそちに返すぞ!
郁之進 (顛倒して)ああ俺は、殿に刃向った。殿にお手傷を負わせ申した。この手で殿を斬った! なんという恐ろしい! うむ、そうだ、この上は――(刀を拾って)御免!
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どっかと坐り、手早く腹を寛《くつろ》げて突き立てようとする。
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播磨 (その手を抑さえて)早まるな、主君と家来ではない。人間と人間、男と男として、おれの言うことをひととおり聞いてくれ。この加世は、いまだに立派にそちの妻だぞ。側へ召し上げて以来、そちを想う加世の純情を見るにつけ、余は、自分の乱行に眼が覚めた――。
郁之進 えっ! (茫然たることしばし、ふたたび腹を切ろうとする)
播磨 (傷に苦しみながら、郁之進を制して)おれは加世によって、人間の美しい愛情を、はじめて見たぞ――今までの女は今まで余の手をつけたすべての女は、余を主君とのみ観て、みな絶対無条件に、死んだようになって余の意志に従った。が、おれは、男として、人間として、そのたましいの脱けた人形のような女たちには、飽き飽きしてしまったのだ――。
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郁之進と加世は、苦しげな播磨守のようすにおどろいて、あわてて左右から支える。
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播磨 ううむ、それで、それで、理不尽にも加世を奪り上げたのだが、彼女《かれ》は、いかにしても拒みとおすのみか、日夜良人を慕って泣く加世の純真な姿に、おれは、おれは、長らく求めてえなんだほんとうの女を見たのだ――加世だけはこのおれを、馬鹿大名と扱ってはくれなかった。憎むべき一個の男として、拒絶しとおしてくれたのだ。おれはそれが嬉しい。何よりもうれしい! おれはこれを探していた。おれの望んでいたものは、これだったのだ! どんなにそれを捜し求めたことか、おれのその味気ない胸中は、だ、誰も知らぬ。うむ、誰も知らぬ――加世の拒絶によって、おれは初めて男になった。加世はおれを、人間にしてくれたのだ。おれはもう馬鹿大名ではないぞ。郁之進と同じ人間だぞ、一人の男だぞ。それが郁之進と加世を争って、み、見事に負けたのだ。ははははは、ああ愉快だ、ああ愉快だ! 加世のおかげで、おれはやっと、この人間らしい、男らしい晴ればれとした気持ちを、とうとう味わうことができたのだ。その大恩人の身体《からだ》に、どうして触れられよう! 郁之進! 加世は潔い身体だぞ。す、末長く、仲よく添い遂げい。
郁之進 (狂乱して)殿! お気を確かに――私はこの場に屠腹《とふく》して、お詫びつかまつります。
播磨 ええいっ、馬鹿め! わからぬか。それでは余の念が届かぬ。
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どやどや跫音《あしおと》を乱して家老矢沢、吾孫子老人、池田、森ら多勢走り込んでくる。一同この場の仕儀に愕然として、物をも言わず郁之進を召し捕りにかかる。
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播磨 (すっく[#「すっく」に傍点]と起って、大手を拡げて郁之進と加世を背《うし》ろに庇《かば》う)何をするかっ! 郁之進に斬られて、余は今、生まれて初めて、日本晴れの気もちが致しておるところだ。うういや、郁之進が斬ったのではない。多門三郎が余を斬ったのだ。者ども、郁之進に手をつけることはならん! (矢沢へ)爺い! いかさまあの久保奎堂は、刀相の名人だて。当ったぞ、適中いたした、ははははは。(よろばいながら、笑う)郁之進は腹を切るには及ばぬ。禄を召上げるにも、閉門を命ずるにも及ばぬ。追って加増の沙汰をいたす。が、憎くき下手人はその刀じゃ。多門三郎景光を、獄門にかけい、はははははは。
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底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
初出:「講談倶楽部」講談社
1935(昭和10)年1月
※改行行頭の人名は、底本では、ゴシックで組まれています。
※ト書きは、底本では、小さな文字で組まれています。
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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