いつつ)僕が伊藤を憎むのも、つまりあいつに惹かれている証拠じゃないかと思う(間、しんみりと)なにしろこの三年間というもの、伊藤は僕の心を独占して、僕はあいつの映像を凝視《みつ》め続けてきたんだからなあ。三年のあいだ、あの一個の人間を研究し、観察し、あらゆる角度から眺めて、その人物と生活を、僕は全的に知り抜いているような気がする。まるで一緒に暮らしてきたようなものさ。他人とは思えないよ。(弱々しく笑う)このごろでは、僕が伊藤なんだか、伊藤が僕なんだか――。
柳麗玉 解るわ、その気持ち。
安重根 白状する。僕は伊藤というおやじが嫌いじゃないらしいんだ。きっとあいつのいいところも悪いところも、多少僕に移っているに相違ない。顔まで似て来たんじゃないかという気がする。
柳麗玉 (気を引き立てるように噴飯《ふきだ》す)ぷっ、嫌よ、あんなやつに似ちゃあ――。で、どうしようっていうの?
安重根 (間、独語的にゆっくりと)伊藤は現実に僕の頭の中に住んでいる。こうしていても僕は、伊藤のにおいを嗅ぎ、伊藤の声を聞くことができるんだ。いや、おれには伊藤が見える。はっきり伊藤が感じられる!
柳麗玉 (気味悪そうに)安さん! あたし情けなくなるわ。
安重根 (虚ろに)伊藤がおれを占領するか、おれが伊藤を抹殺するか――自衛だ! 自衛手段だ! が、右の半身が左の半身を殺すんだからなあ、こりゃあどのみち自殺行為だよ。
柳麗玉 (うっとりと顔を見上げて)そうやって一生懸命に何か言っている時、安さんは一番綺麗に見えるわね。
安重根 もう駄目だ。ハルビンへ来て四日、日本とロシアのスパイが間断なく尾けている。(ぎょっとして起ち上る)今この家の周りだって、すっかりスパイで固まってるじゃないか。
柳麗玉 (びっくり取り縋って)そんなことないわ。そんなことあるもんですか。みんな安さんの錯覚よ。強迫観念よ。ほら、(手摺りから下の露路を覗いて)ね、誰もいないじゃないの。
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ニイナ・ラファロヴナが物乾しの台の上り口に現れる。
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ニイナ まあ、お二人ともこんなところで何をしているの? 寒かないこと?
柳麗玉 (安重根から離れて)あら、うっかり話しこんでいましたのよ。
安重根 何か用ですか。曹君はどうしました。
ニイナ いいえね、今夜でなくてもいいんでしょうと思いましたけれど、これを持って来ましたの。
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手に持っている鏡を差し出す。
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安重根 あ、鏡ですね。
ニイナ 鏡ですねは心細いわ。さっきあなたが鏡がほしいようなことを言ってらしったから、これでも、家じゅう探して見つけて来たんですの。でも、こんな暗いところへ鏡を持って来てもしようがありませんわね。
安重根 いいんです。ここでいいんです。
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と鏡を受け取ろうとする。
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ニイナ (驚いて)まあ、安さん、その手はどうしたんですの。
安重根 手? 僕の手がどうかしていますか。
ニイナ どうかしていますかって、顫えてるじゃないの、そんなに。
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安重根はニイナへ背中を向けて、自分の手を凝視める。自嘲的に爆笑する。
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安重根 (手を見ながら)そうですかねえ。そんなに、そんなに顫えていますかねえ。はっはっは、こいつあお笑い草だ。
ニイナ 笑いごっちゃありませんわ。まるで中気病みですわ。水の容物《いれもの》を持たしたら、すっかりこぼしてしまいますわ。
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安重根はふっと沈思する。
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ニイナ (何事も知らぬ気に)あたしなんかにはいっこう解りませんけれど、それでも、いま安さんが立役者だということは、女の感というもので知れますわ。うちの曹道先なども、この間じゅうから、今日か明日かと安重根さんの来るのを待ったことと言ったら、そりゃあおかしいようでしたわ。
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安重根は手摺りに倚って空を仰いでいる。
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ニイナ そんなに持てている安さんじゃあないの。何をくよくよしているんでしょう。ねえ、安さん、そんなことでは――。
安重根 (どきりとして顔を上げて、鋭く)何です。
ニイナ まあ、なんて怖《こわ》い顔! そんなことでは柳さんに逃げられてしまうって言うのよ。ねえ、柳さん。
安重根 (ほっとして)あ、柳ですか。柳に逃げられますか。そうですねえ。
ニイナ 何を言ってるのよ。妙に
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