十月二十三日、夜中。ハルビン埠頭区レスナヤ街、曹道先洗濯店。

屋上の物乾し台。屋根の上に木を渡して設えたる相当広き物乾し。丸太、竹の類を架けて、取り込み残した洗濯物が二三、夜露に湿って下っている。下は、いっぱいに近隣の屋根。物乾し場の下手向う隅に昇降口、屋根を伝わって梯子あり。遠く近く家々の窓の灯が消えて往く。一面の星空、半闇。

曹道先――洗濯屋の主人。情を知って安重根のために働いている。四十歳前後。カラーなしで古い背広服を着ている。
ニイナ・ラファロヴナ――曹道先妻、若きロシア婦人。
金成白――近所の朝鮮雑貨商。安重根の個人的知人。朝鮮服。三十歳ぐらい。

他に安重根、禹徳淳、柳麗玉、劉東夏。

物乾し台の一隅に安重根と柳麗玉がめいめい毛布をかぶって、肩を押し合ってしゃがんでいる。長いことそうして話しこんでいる様子。足許にカンテラを一つ置き、一条の光りが横に長く倒れている。
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安重根 (露地や往来が気になるごとく、凭りかかっている手摺りからしきりに下を覗きながら)だからさ、僕が伊藤を殺《や》っつける――とすると、それはあくまで僕自身の選択でやるんだ。同志などという弥次馬連中に唆《そその》かされたんでもなければ、それかと言って、禹徳淳のように、例えば今日伊藤を殺しさえすれば、同時にすべての屈辱が雪がれて、明日にも韓国が独立して、皆の生活がよくなり、自分の煙草の行商もおおいに売行きが増すだろうなどと――(笑う)実際徳淳は、心からそう信じきっているんだからねえ。だが、僕は、不幸にも、あの男ほど単純ではないんだ。
柳麗玉 (寄り添って)そりゃそうだわ。徳淳さんなんかと、較べものにならないわ。
安重根 (独語)ほんとうに心の底を叩いてみると、おれはなぜ伊藤を殺そうとしているのかわからなくなったよ。
柳麗玉 (びっくりして離れる)まあ、安さん! あなた何をおっしゃるの――?
安重根 ここまで来て、伊藤を殺さなければならない理由が解らなくなってしまった――。(自嘲的に)祖国の恨みを霽らして独立を計るため――ふふん、第一、国家より先に、まずこの安重根という存在を考えてみる。(ゆっくりと)ところで、おれ個人として、伊藤を殺して何の得るところがあるんだ。
柳麗玉 (熱心に縋りついて)どうしたのよ、安さん! 今になってそんな――あたしそんな安さんじゃないと思って――。
安重根 (思いついたように)おい、こっそりどこかへ逃げよう。そっして二人で暮らそう!
柳麗玉 (強く)嫌です! こんな意気地のない人とは知らなかったわ。なんなの、伊藤ひとり殺《や》っつけるぐらい――。
安重根 (急き込む)ポグラニチナヤへ引っ返すか、さもなければチタあたりの、朝鮮人の多いところへ紛れ込むんだ。学校にでも勤めて、君一人ぐらい楽に食べさせていけるよ。僕あこれでも小学教員の免状があるんだからな。(懸命に)おい、そうしよう。天下だとか国家だとか、そんなことは人に任せておけばいいじゃないか。おれたちは俺たちきりで、小さく楽しく生活するんだ。自分のことばかり考えて、周囲《まわり》に自分だけの城を築いて暢気に世の中を送るやつが――思いきってそういうことのできるやつが、結局一番利口なんじゃないかな。
柳麗玉 (起ち上る)ははははは、馬鹿を見たような気がするわ。今に人をあっと言わせる安さんだと思ったから、あたし、こんなことになったんだわ。
安重根 (笑って)冗談だよ。今のは冗談だよ。そんなことほんとにするやつがあるかい。
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沈思する。間。
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安重根 (苦しそうに)しかし、おれは今まで、一心に伊藤を恨み、伊藤を憎んで生きて来た。伊藤に対する憎悪と怨恨にのみ、おれはおれの生き甲斐を感じていたんだ。が、考えてみると、それも伊藤が生きていればこそだ。ははははは、ねえ、柳さん、君は伊藤という人間を見たことがあるか。
柳麗玉 いいえ。写真でなら何度も見たわ。
安重根 (急に少年のように快活に)ちょっと下品なところもあるけれど、こう髯を生やして、立派な老人だろう?
柳麗玉 (微笑)ええ、まあそうね。偉そうな人だわ。でも、あたしあんな顔大嫌い。
安重根 僕は三年間、あの顔をしっかり心に持っているうちに――さあ、何と言ったらいいか、個人的に親しみを感じ出したんだ。
柳麗玉 (かすかに口を動かして)まあ!
安重根 ははははは、やり方は憎らしいが、人間的に面白いところもあるよ。決して好きな性格じゃないが――。
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柳麗玉は無言を続けている。
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安重根 (下の道路に注意を払
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