ぼうっとしているわね。冗談一つ言えやしない。
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ニイナは降りて行く。安重根は片手に鏡、片手にカンテラを取り上げて黙って顔を映して見る。長い間。
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柳麗玉 その鏡どうなさるの?
安重根 屋下《した》へ降りて、もう一度最後にあの変装をして鏡に映してみようと思って――。
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あわただしい跫音とともに昂奮した禹徳淳が物乾し台へ駈け上って来る。
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禹徳淳 (安重根の腕を取る)おい! いま東夏のやつが調べて来た。とうとう決まったぞ。明日《あす》の晩か明後日の朝、出迎えの特別列車がハルビンから長春へ向って出発する。
安重根 (禹徳淳の手を振り放して、ぼんやりと)そうか――。
禹徳淳 (いらいらして)どうしたんだ君あ! (どなる)こんな素晴しいレポがはいったのに何をぽかんとしている。
安重根 (間。禹徳淳と白眼み合って立つ。急に眼が覚めたように)徳淳! それはたしかか。すると、その汽車で来るんだな。(考えて)途中でやろうか。
禹徳淳 (勢い込んで)これからすぐ南へ発って――。
安重根 (別人のように活気を呈している)そうだ! 三夾河まで行こう! ハルビンで決行する方が都合がいいか、他の停車場へ行ってやるのがいいか、単に視察のつもりでも無意味じゃないぞ。
禹徳淳 どうせ明日一日ここにぶらぶらしていたってしようがない。
安重根 それにハルビンは軍隊が多いし、いざとなると近づけないかもしれない。ことにココフツォフも来ている。警戒は倍に厳重なわけだ。
  曹道先を案内に劉東夏が駈け上って来る。
劉東夏 (息を切らして)蔡家溝《さいかこう》で三十分停車するそうです! はっきりわかりました。この先の蔡家溝です。あすこだけ複線になっているので、臨時列車なんか三十分以上停車するかもしれないと言うんです!
安重根 (きびきびした口調)護照のほうはどうだ。大丈夫か。
禹徳淳 東夏君にすっかりやってもらってある。
安重根 汽車はまだあるな。
劉東夏 急げば間に合います。
禹徳淳 蔡家溝までか。
安重根 馬鹿言え。どうなるかわからない。三夾河まで買わせろ。
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と先に立って急ぎ物乾しを降りかける。
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禹徳淳 (続いて)写真を撮《うつ》しておけばよかったなあ、君と僕と――。
安重根 写真なんか、まだ撮せるよ、明日蔡家溝ででも。
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金成白が駈け上って来て、上り口で衝突しそうになる。
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金成白 (安重根へ)先生、いよいよ――。
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安重根は無言で、力強く金成白と握手する。「三夾河行き」、「いや、蔡家溝で下車」、「三人で停車場まで走るんだ」など安重根、禹徳淳、劉東夏の三人、口ぐちに大声に言いながら勢いよく屋根を降りて行く。柳麗玉も勇躍して、見送りに走り下りる。曹道先と金成白は手摺りに駈け寄って下を覗く。
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       12[#「12」は縦中横]

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翌二十四日、深夜。蔡家溝駅前、チチハル・ホテル。

木賃宿の如きホテルの階上の一室。灰色の壁、低い天井、裸かの床《ゆか》、正面に廊下に通ずる扉《ドア》、ドアの傍に椅子一つ。窓はなし。片隅に毀れかかった鉄製の寝台が二つあるのみ、他に家具はない。

安重根、禹徳淳、劉東夏、蔡家溝駅長オグネフ、同駅駐在中隊長オルダコフ大尉、同隊付セミン軍曹、チチハル・ホテル主人ヤアフネンコ、支那人ボウイ、兵卒、ロシア人の売春婦三人、相手の男達。

隅に二つ並んだ寝台に、安重根と禹徳淳が寝ている。禹徳淳は鼾《いびき》を立てて熟睡し、安重根はしきりに寝返りを打つ。寝台の裾に二人の衣類が脱ぎ懸けられ、安重根のベッドの下には、ウラジオから持って来た行李が押し込んである。扉《ドア》の傍の椅子に、大きな外套を着て劉東夏が居眠りしている。薄暗い電燈。廊下の時計が二時を打つ。長い間。ドアが細目にあいて、ロシア人の女が覗き込む。劉東夏の眠っているのを見すまし、そっと手を伸ばして鼻を摘もうとする。劉東夏は口の中で何か呟いて払う。
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女 (低く笑って)門番さん! ちょいと門番さんてば! 何だってそんなところに頑張ってんのさ。寒いわ。わたしんとこへ来ない? はいってもいい?
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劉東夏は眼を覚ます。
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女 (小声に)まあ、あんた子供じゃ
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