負債を生命《いのち》を的にして払わなければならないものでしょうか。
李剛 (凝然と立っている)驚いた。君という人間は、実に女性的だねえ。負債? 何が負債です。君はどうかしている。何もそんな考え方をする必要はないのだ。(なかば独り言のように)やはり病気のせいかも知れない――このごろ、胸のほうはどうです。
安重根 (激昂して起ち上る)負債じゃあありませんか。僕は自由人を標榜《ひょうぼう》して伊藤公暗殺――。
李剛 安君! 君、そんなことを大きな声で言っていいのか。
安重根 (声を落して)自由人を標榜して伊藤公暗殺を計画したんです。ところが、滑稽なことには、その計画が知れると同時に、その瞬間から、僕は同志によって自由人でなくされてしまった。みんなの共有の奴隷になってしまったんです。(激して)嫌です! 断じて嫌です。こうなったら、同志を相手にあくまでも戦うだけです。戦って、この束縛から※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き出るんです。
李剛 (笑いながら)いったい君はどうしようというのだ。
安重根 同志が聞いて呆れる。あいつらはただ、私を追い詰めて騒いでいれば幸福なんです――。
李剛 君、飯はまだだと言ったね? (手の紙幣《さつ》束を突き出して)これで何かそこらでやってくれたまえ。僕もつきあえるといいんだが、社にちょっと用があるから、失敬する。(歩きかける)
安重根 (機械的に受取って)御免です! 同志なんかというおめでたい集団力に動かされて――嫌なこってす。誰が他人《ひと》のお先棒になるもんか! 僕はそんなお人好しじゃあないんだ。
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と手の札束に気がついて愕く。
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安重根 (追いかけて)先生、これ、どうしたんです。こんなにたくさん――。
李剛 飯を食って、余ったら旅費のたしにするさ。
安重根 (警戒的に)旅費――?
李剛 (声を潜めて)安君、金は充分か。
安重根 (ぎょっとして飛び退《の》く)金?――何の金です。
李剛 (迫るように寄る)君はさっき、今夜一晩黄成鎬のところへ泊って、明日発つと言ったね。旅費さ。旅費だよ。(意味あり気に)旅に出ると、金が要るからねえ。
安重根 (熱心に)先生、ほんとに僕は途中ちょっとポグラニチナヤへ寄って、それから、家族を迎えに(ハルビンへ)行くんです。それだけなんです。
李剛 (強く)よろしい! 家族を迎えにハルビンへ行きたまえ。
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二人は探るように顔を見合って立っている。長い間。
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李剛 (低声で)今となっては同志が黙っていまいよ。こんなに知れていることだからねえ。
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間。
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安重根 今日一日それを考えたんです――仕方がありません。ハルビン行きは止めます。止めて、自首します。
李剛 (冷く)自首! それもいいだろう。いまさかんに日本の御機嫌を取っているロシアのことだから、警察は大よろこびだ。
安重根 (間)こんなに苦しむより、いっそ自首して出たほうがどんなにましだかしれやしません。(泪ぐんで)自首します。自首すれば、とにかく問題は解決して、先生も安心でしょう。僕も安心です。謀殺未遂というやつですねえ。結構です。
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安重根は革紐で行李を引きずり、俯向いて歩き出しながら、ゆっくり自分に言い続ける。
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安重根 そうだ。自首してやれ。何でもいい。自首して、あいつらに鼻を明かしてやりさえすれば、それでいいのだ。自首だ。今まできいたふうな口を叩いていた見物人は驚くだろうなあ。今度は生やさしい間諜の噂ぐらいではないぞ。(決然と)腹の底から引っくり返るようにやつらに、背負い投げを食わしてやるのだ――。
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と急ぎ去る。李剛は微笑を含んで見送っている。
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       6

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その真夜中。博徒黄成鎬の家。

往来に面した部屋。正面いっぱいの横に長い硝子窓に、よごれた白木綿のカアテンがかかっている。中央に戸外に開くドアあり。左右にも扉があって閉まっている。左は台所、右は別室へ通ずるところ。真ん中に、火のはいっていないストウブを取り巻いて毀れかかった椅子数脚。あちこちに粗末な卓子、腰掛けなど数多ありて、集会所に当ててある。腰掛けの一つは逆さまに倒れ、紙屑、煙草の吸殻など散らばり、乱雑不潔なるさま。赤い紙片で包んだ電燈が低く垂れ下っている。

黄成鎬――博徒。独立党の同情者、五十前後。ほかに禹徳淳、朴鳳錫、白基竜、安
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