)おお、君、飯はまだだろう?
安重根 この私の場合がそうです。なるほど私は、この計画を二、三のいわゆる同志に打ち明けて相談したことがあります。(李剛の傍に坐る)ええ、まだです。じつは、朝から何も食べずに、今まで考えながら歩いていたのです。
李剛 自宅《うち》へ行くと何かあるようだが――。(とルバシカの懐中から紙入れを引き出して、そっと紙幣を数えながら)しかし、それは君、君自身の心持ちに、外部から突っかえ棒を与えて、いっそう決行を期そうとしたのじゃないかな!
安重根 そういう気持ちも、あるにはありました。ところがです、それがいつの間にかこの辺一帯の同志のあいだに拡まってしまって、このごろでは、私が伊藤を殺すことは、まるで既定の事実か何ぞのように言われているのです。
李剛 (冷く)それほど期待されていれば、結構じゃないですか。僕個人としては、前にもたびたび言ったように、この計画には絶対に不賛成なのだが――。
安重根 先生、私も嫌になりました。上っ面な賞讃と激励で玩具にされているような気がして、同志という連中の無責任さに反撥を感じているんです。私はさっき、同志に会いたくない、会うのが恐しくて、今朝ウラジオへ出て来ても一日逃げ隠れていたと言いましたね。国士めかした、重要ぶったやつらの顔が癪なんです。それに、どういうものか私はあの連中に会うと、不思議な圧迫を感じて、是が非でも伊藤を殺さなければならない気持ちにさせられる。それが恐しいのです。(笑って)この私は、皆から、あの一人の人間を殺すためにだけ生れて来たものと頭から決められているんですからねえ。なかには、もう決行したかのように、私を、あなたの言葉でいえば「国民的英雄」扱いして喜んでいる者もあります。何と言っていいか、じつにやりきれない気持ちです。
李剛 (低声に)人気者は気骨が折れると諦めるさ。
安重根 先生は冷淡です。僕がこんなに苦しんでいるのに、すこしも同情を持とうとしない。誰も僕のことなんかこれっぽっちも考えてはいないんです。なんでもいいから、一日も早く僕が伊藤を殺しさえすれば、それでみんな満足するんでしょう。だから、やれ決死の士だの、やれ、韓国独立の犠牲だのと、さんざん空虚な美名で僕を祭り上げて、寄って集《たか》って僕を押し出して、この手で伊藤を殺させようとしているんです。(独語)誰がその手に乗るもんか。
李剛 (不思議そうに)君は何を苦しんでいるのかね。
安重根 (仰向けに寝転ぶ)人間なんて滑稽なもんですねえ。以前は私なんかに洟《はな》も引っかけなかった連中まで、一度今度の計画が知れると、まるで手の平を返すように、どこへ行っても別扱いです。みんな十年の知己のように馴々しく手を差し伸べて来るか、さもなければ、まるで仏像でも見るような眼をします。それが私には、死者に対する冷い尊敬と、一種の憐愍の情のようにしか打って来ないんです――たまりません!
李剛 (平静に)はっはっは、君の言うことを聞いていると、まるで他人《ひと》の命令で、今度のことを思いついたように聞えるが、すくなくとも僕だけは、はじめから反対だったのだからねえ。今だって反対です。一プリンス伊藤を斃したところで、日本のジンゴイズムはどうなるものでもない。韓国の独立という大目的のためにも、何ら貢献するところはないと思う。単なるデモとしたって、計画的に後が続かなくちゃあ、一つだけでは何の効果もないのだ。
安重根 (低く笑って)しかし先生、私はどういうものか、この計画は、何らかの形で最初あなたから暗示を受けたような気がしてならないんですがねえ。
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李剛はぎょっとして起ち上る。安重根は草に寝たまま、感情を抑えた声で続けている。
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安重根 解っていますよ。それは、言葉の表面では、先生は初めから反対でした。ははははは。
李剛 (狼狽を隠して)言葉の表面? 何のことです。僕は今も明白にその反対の理由を話したばかりだが――第一、そういう内面的な経過は、僕の知ったことではない。
安重根 (起き上る)先生ばかりじゃあありません。同志と称する連中は、私が伊藤を殺すのを面白がって待っているんです。(ぼんやり草を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]りながら)みんな何よりの、秘密な楽しみにしているんです。だからこのごろ、あの連中に会うと、「まだこいつは決行しないな。何をぐずぐずしているのだ。機会がないなんて、東京へ行って伊藤公の邸へ押しかけたらいいじゃないか」と、そんな顔をしています。まるで何か約束の履行を迫られているような気がします。(興奮して)しかし私は、誰とも、必ずあいつを殺すと約束した覚えはないんです。それでも私は、この、同志たちに課せられた不当な
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