うとすると、足がしびれて袴の裾を踏んだ。
 小姓がくす[#「くす」に傍点]っと笑って下を向いた。
 邦之助の役宅は八丁堀屋根屋新道、帰路について、往来を歩きながらも、邦之助の頭は死に花の一件や烏羽玉組の跳躍[#「跳躍」はママ]、さては今いってきた大老様に対する水戸藩一派の策動などでいっぱいだった。考えれば考えるほど、このごろは人間がめだって不敵になったように思われる。
「しかし、これも世の中かな」
 と思う。
 が、得体の知れない草花を使う刺客やら、江戸中に出没する黒装束の強盗団、人もあろうに大老の首をねらう一味のことなどを、同心としての自分の立場からつぎからつぎと心に浮かべてゆくと、その一つにすらはっきりとした眼串《めぐし》が立っていないのが、役柄の手前はなはだふがいない気がする。穴あらばはいりたい。――ほとんどそんな悩みを覚えるのだった。
 何も自分ひとりの手落ちというわけではなし、また仮に邦之助が単身ふんばってみたところで天下の大勢をどうすることもできないのだが、そこが苦労性の生まれつきでしようがない。まるで青菜に塩の体《てい》で、考え込みながらふらふら[#「ふらふら」に傍点]と数寄屋橋《すきやばし》御門から西紺屋《にしこんや》の河岸《かし》っ縁《ぷち》へ出た。
 もう四刻《よつ》をまわっている。
 暗いなかにどこか空あかりが漂っている美しい晩だ。
 思案に沈んでいた税所邦之助、背後の供が何かいうのも聞こえなかったが、やにわに横合いから提灯を突きつけられてびっくりした。
「お! な、何者だ?」
 急の光に眼がくらんで相手の顔は見えない。
 と、すっと提灯が下がった。
「人違いでござる。粗忽、ごめんを――」
 声に記憶《おぼえ》があった。とたんに、提灯の火が消えた。
「や!」
 邦之助の手が、思わず刀の柄にかかる。ところが男は、慇懃《いんぎん》に小腰をかがめているようだ。
 こやつ、見たことのある顔!
 ああ、そうだ。確か名を篁守人――本所の玄鶯院宅方来居へ乗り込んだとき、玄関に寝ていたあの若い浪人者――。
 怪しい! 寄って来たら真っ二つと! 邦之助が構えていると、守人は一歩下がって、
「失礼致しました」
 立ち去るかと見えて、すたすた歩いて来る。
 はっ[#「はっ」に傍点]として、さては、と邦之助が腰をひねったとき、守人は邦之助とすれすれにそのまま通り過ぎて行った。
 振り返って見ると、もういない。
「何じゃ、妙な奴じゃな」
 邦之助、供をかえりみる。
「さようで――おおかた夜遊びの御勤番衆ででもございましょう」
 見間違いということもある。守人ではなくて、たぶんそんなところだろう――ということになって、主従無言で歩き出した。
 あそこから八丁堀までかなりある。で、帰り着いたころは夜もすっかりふけ渡っていた。
 と、疲れ――もちろん邦之助はつかれていた。が、疲労以外のからだのぐあいが邦之助を襲い、その四股《てあし》をしばっているように感じられた。門から玄関へかかるのが邦之助にはいっしょうけんめいだった。式台へ上がろうとして、彼はくつ脱ぎの上へべたり[#「べたり」に傍点]とくずれてしまった。それでも夢中でうめくように何かいいつづけた。
「花――ことによると、死に花かもしれぬ! か、からだをあらためてみい。は、早く、早く!」
 とせき立てながら、自分は泥沼へでも沈むように刻々気を失ってゆくらしかった。
 迎えに出た妻と供の男が驚いて、邦之助のからだをしらべてみた。
 と、長さ五分に足らぬ小さな草が、邦之助の首筋に吸い附いて、皮の下に、青い細い根を網のように張っているのを発見した。白い茎《くき》の中に一すじ赤く血を吸い上げているのが見える。その血を受けて、毒々しい真紅《まっか》な花が今や咲きかけているのだ!
 これぞ話に聞いた死に花である。
 大変! 一刻も早く!
 というので、供の男はそのまま近所の町医へ走り、ほかのひとりがいろは屋を呼びに日本橋浮世小路をさして駈け出した。

   たびたび来てもくるたびにむだ

 日本橋の浮世小路である。
 出もどりの姉おこよが出しているいろは寿司の奥の一間。
 暑くなりかけた陽ざしを避けて、文次と安兵衛が話している。文次は[#「文次は」は底本では「文次郎は」]いま、御用帳を読みおわったところらしい。膝に帳面が載っかっている。
「なあ安、そこでだ――」
 と文次が安に鋭い一瞥《いちべつ》をくれた。
「へえ」
 なぜか御免安はおどおどしている。
「お前がお蔦をつけたことを今までおれに隠していたかと思うと、おらあ正直いやな気がするぜ」
「へえ」
 といったきり、すぐとごめんやすとやるわけにもゆかず、安兵衛ことごとく恐縮の態だ。
「耳にゃ痛かろうがいうだけあいうつもりだ」文次がつづける。「お前がお蔦を見かけて、あとをつけて、神田の連雀町でまかれたってこたあ俺にあちゃん[#「ちゃん」に傍点]とわかってる。安、なぜいままで黙ってた?」
「ごめんやす」
「ごめんやすじゃねえ」
「へえ」
「へえ[#「へえ」に傍点]じゃねえ。こうっ、安、われあ何だな俺を出し抜いて一人功名を立てようとしたな。どうだ。図星だろう?」
「と、とんでもない! そ、そんな――」
「なら、何だ? 何だよ? その理由《わけ》ってのをいってみな。え。おう聞こうじゃねえか」
「へえ。実は親分」と安は頭をかいて、「実あその、もうすこしはっきり[#「はっきり」に傍点]見当がついてから申し上げようと思っていましたんで……ついその、胸一つに畳んでおく、ってなことに。へへへへ、ごめんやす」
 文次の眼がぎょろ[#「ぎょろ」に傍点]っと光った。
「嘘をつけ! てめえは何だろう、あのお蔦に惚れてやがって、それで、俺にこっそり女をつらめいて味なまねをしようとたくらんでいたんだろう? いうことを聞けあ眼をつぶって放してやるとか何とかぬかすつもりで」
「じょ、冗談じゃねえ!」
「そうよ冗談じゃねえぜ。それに安、お蔦あ桝目《ますめ》を打った小判で五百両も持ってるから、なあ手前の考えそうなこった」
「まあ、親分、何もそうぽんぽん――」
「ぽんぽんいいたくもなろうじゃねえか――それによ、お蔦がまだ両国で人魚に化けて小屋へ出ていたころから、てめえいやに熱心に通ったじゃあねえか」
「面目ねえ。ごめんやす。へへこのとおり――」
「ま、いいやな。だがなあ、安、てめえの情婦《いろ》のお蔦も、おれみてえな野暮天にかかっちゃあ災難よなあ。おらあこれから三味線堀へ出向いて、お蔦を挙げてくるつもりだ」
「えっ! すると何ですか。やつあ今三味線堀にいるんですかえ。へえっ! こりゃ驚いた」
「おどろき桃の木|山椒《さんしょ》の木だろう。しかもお蔦ばかりじゃねえ。お蔦といっしょにいる手枕舎里好とかいう狂歌の先生もしょっ[#「しょっ」に傍点]引いてくるんだ」
「狂歌の先生がどうかしましたかえ」
「なあに、そいつあ掏摸よ。おれあゆうべ神田の津賀閑山の店へ寄ってな、ちょうど脅迫《ゆすり》に来ていた女侍の話を聞いてしまった。
 お蔦は鎧櫃にへえって閑山の店を出て、それから久七のまちげえであの空家へ届けられたんだが、そこから逃げて、今あ下谷の三味線堀の里好てえ野郎の家に隠れているんだ。あの女のお蔦に相違ねえことは、まず人相が合うし、何よりもお前桝目の印を打った小判を持ってやがる」
「するてえと何ですかえ、神田の津賀閑山も同類なんで?」
「いや、そんなこたああるめえ。とはいうが、これあほんの俺の気持ちだからな、閑山も当分にらんでおかざなるめえて」
「なるほど。妻恋坂の饗庭は? 親分」
「饗庭は臭え。が、大物だからな。よほどつかんでかからねえことにあ思わぬどじを踏むぜ。まあ、遠巻きだ。それが上策よ」
 いい終わって、文次は腕を組んだ。
 眼を伏せて、膝の上の御用帳をみつめている。
 この御用帳というのは、いわばいろは屋の自家用覚え書きで、お役人からおおせつかった探索の用事、市井で起こった事件、それらに関する聞き込みなどを、忘却を防ぐために雑然と書きとめておく帳面であった。大福帳みたいに筆太に御用帳と書いた、半紙を横折りにとじた帳面がいつも居間の壁にかかっていた。それが、いろは屋|名代《なだい》の御用帳であった。
 文次は今この御用帳のあるところを開いて、しきりに眼を走らせている。
 ――こんなことが書いてある。
 先般来、江戸に男女二人づれの押し込みが横行して、昨夜は本郷、今夜は芝といったふうに、ほとんど毎晩八百八町を荒しまわったが、先夜この男女の強盗が万願寺屋という品川の造り酒屋へはいって、大奥のお賄方《まかないかた》から酒の代に下しおかれた五百両の小判を奪い去ってからというものは、いっそう詮議がきびしくなった。
 というのは、あまり眼にあまるというので江戸中の岡っ引きが真剣になりだしたわけであるが、実をいえば、眼じるしのある小判を持って行ったというところに御用聞きは非常な望みをかけたのである。遠からず一枚ぐらいは市《まち》へ出てくるだろう――というので、それぞれ町方へ手配をして桝目の小判の現われるのを待っていたが、いくら待っても一枚も出てこない。
 これは出ないわけだ、お蔦が大事をとって使わないで、肌身《はだみ》離さず胴へ巻いて持ちまわってるのだから。
 で、いろは屋文次をはじめ岡っ引き一同が手のつけどころがなくて困っていると、いわゆる天の助けというやつで、津賀閑山が例の鎧櫃取りもどしの一件を頼みこんで来たところから、はしなくもお蔦の居所だけは文次はつきとめることができたが――。
 お蔦の相棒だった男は何者であろう?
 押し込みのさいには、いつも必ずお蔦が先にはいり込んで、なかから締まりをはずして男を入れて仕事にかかったということだ。
 ひょっとすると、あの掏摸の里好という男ではないかしら。
 こう思って、文次は顔を上げた。
「安」
「へえ」
「お蔦が両国に出ていたころ、男があったといったっけなあ」
「へえ。何とかいう水戸っぽで」
「水戸っぽ?」
「遊佐銀二郎とかって――男の子がひとりありやした。が、それも夫婦別れをしたそうで」
「てめえ惚れた女のことだけあっていやにくわしいぜ。しかし、武士《りゃんこ》がついていたんじゃあ、手前なんかに鼻汁《はな》もひっかけやしめえ。お気の毒さまみたようだなあ」
「御挨拶。が、まあ、そんなとこで、へへへ」
「笑いごっちゃあねえぞ。その遊佐ってのが実は手枕舎里好でせいぜいいっしょにかせいでいたという寸法かもしれねえ。とするとこれあ思ったより大捕物だて。安、鼻の下を詰めてついて来い」
「いえ、もう髱《たぼ》にあこりごりで」
「えらく色男めかしたことをいうぜ。勝手に振られてる分にあ世話あねえや。ははははは」
「どうも親分はお口が悪い――それにしても侍的《りゃんてき》がいるんならあぶのうがすな。だいぶやっとう[#「やっとう」に傍点]ができますかい」
「先様がやっとう[#「やっとう」に傍点]ならこちとらあ納豆だ。一つねば[#「ねば」に傍点]ってやれ。久しぶりにあばれるんだ。出かけようぜ安」
 というわけで、それから文次は、すぐに御免安兵衛を連れて下谷三味線堀のめっかち長屋、手枕舎里好の家へ出かけて行った。
 来てみると、昼なのに雨戸がしまって、陽がかんかん照りつけている。
 おや! 変だぞ。
「里好さん、お留守ですかえ、もし、里好さん! いねえのかえ」
 どん、どんどんどん――戸をたたいた。返事がない。
「かまうこたあねえ。あけてみな」
「あい」
 安が手をかけると、意外にも、戸はさらりとあいた。日光といっしょにはいり込んで、文次は土間に立った。
 そして、そこの正面の障子に、墨くろぐろと書かれた手枕舎里好宗匠つくるところの狂歌一首を読んだのである。
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このたびは急な旅とて足袋はだし
    たびたび来てもくるたびにむだ
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   南国の妖花|嗜人草《しじんそう》

 あれだけの人数がどうしてああ音もなく消え
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