ない。
 大老が出て来たらああもいおう、こうも述べよう。こっちの才も見せてやろうと、邦之助しきりに胆田《たんでん》に力を入れている。
 と、しいっしっという警蹕《けいひつ》の声。
 襖の引き手にたれた紫の房が、一つ大きく揺れて、開くまももどかしそうに肥った小男がはいって来た。
 近江国《おうみのくに》犬上郡《いぬがみごうり》彦根藩三十五万石の城主、幕府の大老として今や飛ぶ鳥を落とす井伊掃部頭直弼だ。

   七夕《たなばた》さまより情けない

 彦根様の御下問日――。
 こうして、どうした風の吹きまわしか、一同心の身をもって大老にお目通りすることになった税所邦之助、相手はいまでこそ幕閣の司だが、もとは長いこと部屋住みの次男坊で、相当浮世を見て来た苦労人だとのことだから、一つ怯《お》めず臆せずすべてをぶちまけようとかたくなりながら考えている。
 申し上ぐべきことが山ほどあるのだ。
 それにしてもずいぶん待たせる。もうお出ましになってもよさそうなもの――と邦之助がちょっとからだを動かしかけたとき、さらりとあいだの襖が開いて、ふとった小男がはいって来た。
 近江国犬上郡彦根藩三十五万石の城主
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