墨絵にはなろうが、淡いさびしさだ。
そのさびしさはやがてはっきりした形をとって、追っても払っても若い守人の胸をむしばむ。
雲のようにむらがり起こる恋情を、守人はどうすることもできないのだ。
思う女《ひと》に思われる身は楽しいはず。現世にこれ以上の幸福はないかもしれない。
しかし、それは、思ってもいい女を思い、思われていい女に思われる場合に限る。思われてならない女に思われ、思ってならない女を思う守人の恋、そこに名刀帰雁でさえ断ち切れない哀愁と苦悩がある。思い思われていればそれでよいではないか、と考えてもみるが、こんなあきらめが何になろう。身と心を一筋に向けるのが恋の情感だ。
では、この胸の疾風《はやて》に乗って、女のもとに走り、自分を待ちわびているからだを抱いて、心ゆくまで泣こうか。女と二人で泣こうか――。
なんの五千石、君と寝よ。
恋はすべてである。
この水底に大小を沈めて、丸腰の気もすっぱり[#「すっぱり」に傍点]と、前掛けでも締めて世を渡ろうか。
川風が雨を吹き込む。
守人は身震いをして、悪夢からさめたように慨然と襟《えり》を正した。
天下の安危、静かなること林のごときあいだにも機をねらって東西に奔馳《ほんち》しつつある同志の誓言、これらのことが守人の頭脳《あたま》にひらめくと同時に、たった今までの思慕の感傷を、われから蹴散らすような足取りで、かれは川に沿うて歩き出した。
たとえ瞬間にしろ、あんな妄念にこころをゆだねるとは、俺は何たる見下げ果てた男であろう。ことに自分には、墓へはいる前に、必ず一度はこの帰雁に血を塗らなければならない仇敵《きゅうてき》があるではないか。先哲の書、父や恩師の教えを、俺はいったいどこへきいて来たのだ。
こうして自らをしかっているうちにも、嵐《あらし》に似た恋ごころは守人の心身をかきむしる。
この雨の夜を、あれは今ごろ、どこに何をしているだろう――。
眼をあいたままうなされているのが今の守人だ。
駒留橋《こまどめばし》から両国。
お江戸名所九十六間の板張りが、細かい飛沫《しぶき》に白じらと光っている。
渡れば広小路。
番所を右に、風流柳橋の紅燈。
春宵《しゅんしょう》一刻|価《あたい》千金、ここばかりは時を得《え》顔《がお》[#「顔《がお》」は底本では「顔《がほ》」]の絃歌《げんか》にさざめいている。
が、守人の胸中は外部の闇黒よりも濃い。
どこまで行くつもりか、傘を持ちかえて、平右衛門河岸《へいえもんがし》の通りへかかった。
このときだ。
一つのがんどう[#「がんどう」に傍点]提灯と、それを取り巻いて七、八人の影とが、あとになり前になり、音を忍んで守人のみちにからみ出した。
守人は気がつかない。興の趣くままに、彼はふ[#「ふ」に傍点]と高らかに吟じた。
「今日危途春雨冷やかなり――」
すると、すぐうしろに太い声がして、
「檻車揺夢度函関《かんしゃゆめうごかしてかんかんをわたる》」
と、すばやく次の句をつけた者がある。
驚いて振り返ると、他の影はさっと左右の軒下に分かれて、頭巾《ずきん》の中からほほえみかけて立っている大男の侍一人。
黒ずくめにがんどう[#「がんどう」に傍点]提燈、あまり安心のゆける装束ではない、それが軽く頭を下げて、
「はからずも愛吟の詩を耳にして、つい口に出ました。無礼の段平に御容赦を」
いいながら寄り添う。
「どうつかまつりまして、うろ覚えの一節、拙者こそお恥ずかしく存じます」
辞儀を返して、守人は歩き出した。
ところが侍、なれなれしくならんで来る。
「このごろ物騒な夜道を、貴殿これからいずくへおいででござる」
自分こそ物騒だ。大きにお世話、と守人が黙っていると、
「ははははは、この刻限にこの道、これはいかさま野暮なことをおきき申した。雨の夜の北廓《ほっかく》もまれには妙でござろう。下世話《げせわ》にも気散じとか申してな、武骨ながら拙者もお供つかまつろう」
守人にしては迷惑しごくな話、べつにどこといって目的のあるわけでもないが、大門をくぐろうとは思っていない。で、すぱりといってやった。
「拙者は吉原へ参る者ではござらぬ。どうかかまわずお先へ」
「いやなに、情夫《まぶ》は引け過ぎと申すで、そう急ぐこともござらぬ、はっはっは」と相手は少しも動じない。「それとも、惚れて通うに田舎武士《いなかざむらい》は邪魔だといわるるか」
へんにもつれてくる。
喧嘩《けんか》を売る気。うるさい奴につかまったな、と守人は眉をひそめた。黒い影が三々五々、すこし遅れて左右からつけて行く。
黒頭巾がひとりでしゃべりつづける。
「先刻の詩、惜しい先生が揚げられたものでござるな。拙者ごときも痛憤に耐えぬ一人じゃ」
彼がここで惜しい先
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