美的がころげ込んで来るたあ、殿様も有卦《うけ》に入りましたね」
 という大声がして、ぬっ[#「ぬっ」に傍点]と戸口がふさがった。
 生返事の殿様の先を、二人の男が上がってくる。
 猫侍の主従が、丹三とやらをつれて来たらしい。
 この長廊下、とっさに隠れ場はない。
 ええままよ、猫侍にみつかったらその時のことだ!
 女は暗い側を選んで、廊下のかべに腹合わせに、身を押し付けて立った。
 声高《こわだか》に笑いあって、三人の男が近づく。
 みっし、みっしとうしろに板敷きがきしんで、今手がかかる! と思ったとき、三人の着物がすれすれに女に触れて、話し声とともに夏の雷のように通り過ぎた。さすがの猫待もうっかりしていたものと見える。
 その足音が階段を上るのを聞きすまして、女はちろり[#「ちろり」に傍点]と戸外へ出た。
 夜の庭。
 ぴったりと建物に沿うて、陰を縫ってしゃにむにに走ると、夜眼にも白い門内の小砂利道《こじゃりみち》、ちょっと背後の気はいをうかがったのち、まもなく女は、横町と見える狭い往来に立っていた。
 ほっと安心。
「ああ、よかった!」
 命拾い。
 どこでもいい。どっちの方角でもかまわない。このうえはただ一歩でも遠く、この気味の悪いがらあき[#「がらあき」に傍点]の屋敷を離れたいと、女は、はだしに夜露を踏んで、よろめきながら、かけ出した。
 このとき、二階の部屋へはいった三人の男、見まわすまでもなく女の影も形もない。
「それ御覧《ごろう》じ、御前、みんごと抜けられたではござりませぬか」
 いまいましそうにいったのは猫侍。
「えっ! 逃げた※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 丹三がとんきょうな声をあげた。
「なあに、きっとまだお庭にうろうろしていまさあ。私が行って引っつかまえて来やしょう」
「まま、待て。た、丹三、待て」
 とび出そうとするところを、呼びとめた吃りの侍、ぐっと丹三の肘《ひじ》をとって引き寄せて、何事か低声《こごえ》にいい含める。
 こうしてああしてと、計略でも授けているらしい。
 三人寄れば文珠の智恵。
 どうせろくな相談ではあるまい。
「では、あの、私が――」
 丹三がうれしがって叫んだ。
「そ、そうじゃ。き、貴様、誰か四、五人連れてな」
「名案々々」
 猫侍も小手を打っている。
「あい、ようがす。ちょうど部屋に場ができて、けち[#「けち」に傍点]なのが集まっていますから、加勢を頼んで、これからすぐに追っかけましょう」
「頼むぞ」
「なあに殿様、一本路に女の足だ。世話あござんせん」
 いうまも丹三、どどどどうん、と階下へおりて、ぱっと外へ出るが早いか、仲間を呼びに、庭木のむこうに灯《ひ》のもれている部屋へ走った。
 雲の底には月があると見えて、うっすらとした光が一面にこぼれてはいるが、それとても足もとを見定めるたしにはならない。
 何度かつまずいてのめりながら、ちらちら[#「ちらちら」に傍点]とうしろを振り返って、女は泳ぐように道を急いだ。
 追っ手らしい影も見えない。
 往っても行っても果てしのない屋敷町。
 大きな家が黙々として両側に眠って、塀内の杉の巨木が笑うようにざわめく。
 夜空の一角がほのかに赤いのは下町の灯。
 すると、ここもお江戸のどこかだろう。
 ほつれた鬢《びん》の毛を口にくわえて、女は長い坂を下った。
 曲がり角。
 遅じまいの一軒の小店、お内儀らしいのが大戸を閉《た》てている。
 それへ女が声をかけた。
「今晩は、ちょっと伺いますが、あの、あたし、すっかり道に迷ってしまって、ここはどこでござんしょうねえ?」
 内儀はうさん臭そうに、女をすかし見て黙っている。
 女は懸命。
「これから本所へ行きたいんですけれど――」
「本所ならお前さん、こんなほうへ来ちゃあ大変なまわりですよ」内儀が口を開いた。「ここは――」
 といいかけたが、とたんに、何を見たか、内儀は驚きあわてて、店へ飛び込んで、ぴたり戸をおろしてしまった。
 あれ!
 振り向くと、今来た坂を、黒い人影がばらばらばら[#「ばらばらばら」に傍点]と駈けおりて来る。
 追っ手だ!

   剣光影裡春雨冷

 しとしと[#「しとしと」に傍点]と春の夜の小雨が煙っている。
 ほどよく水を含んだ土は、足駄《あしだ》の歯にこころよい。
 歩きたい晩である。
 割り下水の方来居、相良玄鶯院の宅をあとにした篁守人は、愛刀帰雁を落とし差しに、片手に傘《かさ》を傾けて、暗い裏町づたいに大川の縁へ出た。
 埋堀《うめぼり》のあたりらしい。
 杭《くい》を洗って流れる黒い水が、ざぶうり、ざぶり――音を立てている。
 対岸はお米蔵、屏風《びょうぶ》を立てならべたような甍《いらか》が起伏しているなかに、火見櫓《ひのみやぐら》などが空明りに浮いて見える。
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