、なな、何としおった。つ、罪作りな奴め!」
動いてはならぬ。
声を出してはならぬ。こう念じて、いっしょうけんめいにじっとしていると、侍の足がすうっ[#「すうっ」に傍点]と上へ伸びて来て、腹から胸へかかった。女ははっとした。
そこへ当たれば小判の音がする。
南無三《なむさん》! と覚悟を決めたとき、足は、懐中《ふところ》の小判を越えて、はうように咽喉《のど》から顎《あご》へ――。
「しばらく、御前、しばらくお待ちを」しゃがんでいる侍が制した。
「ううむ。いや、これは美形、世にも珍しき美女にござりまする」
「な、な、何じゃ。美しいとな!」
きき返した主人の驚きを無視して、侍が暗黒を透かして女の顔に瞳を凝らしているぐあい、感に打たれたといった態《てい》だ。
「く、暗がりで物の見えるそちの申することじゃから、こ、こりゃ間違いはなかろう」
「は。提灯なしに、手前は[#「手前は」は底本では「打前は」]夜道で針が拾えまする。十本が十本まで」
くだらないことを自慢しているようだが、ほんととすれば猫みたいな侍、猫侍これだけはちょっと真似人《まねて》があるまい。
「その手前、こうつくづくと観じまするところ、御前、この者は江戸広しといえども、まず比類なき美人にござりましょうな」
「ほほう」
猫侍と主人、長ながと足もとに横たわる女の黒い影を見下ろしていい合わしたように黙り込んだ。
しかし、立ち去りはしない。だから女も、指一つ曲げるわけにはゆかないのだ。
動いてはならぬ。動いてはならぬ――。
ここは二階らしい。
樹々《きぎ》の梢《こずえ》に風が吹くのが、同じ高さに聞こえる。
夜もふけたよう――めいるような陰気さが、御府内とは思われない。
ほほっ、ほっ。どこかで梟《ふくろう》がないている。
お江戸ではないのかしら?
そうだ、ここはきっと江戸ではないのだ。鎧櫃の中で自分が気を失っているあいだに、車がお江戸を出はずれて、こんなところへ来たのかもしれない。そういえば、何刻《なんどき》、あるいは幾日気絶していたものか。あたしにはてんで[#「てんで」に傍点]時の覚えというのがないのだから。
そうだよ。ほんとにここは、もう富士の見えない国かもしれない。
何の因果でこんな遠方へ来たんだろうねえ。
雨! と女は、場合を忘れて、危うく顔を上げようとした。
おっと!
動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
雨ではない。縁とおぼしき一方の締め切った板戸を、立ち木の枝がなでているのだ。
古沼にでも近いか、織るような蛙《かわず》の声。
いよいよもってお江戸を離れている。本所の割り下水と今の自分とのあいだには、何十里、何百里の山河があるのだ、と思うと、女の眼頭が自然《ひとりで》に熱くなって、どうすることもできない涙が一筋、ほろりと畳をぬらした。
はだけた襟もとや四肢《てあし》には、春とはいえ、深夜の空気はあまりにも寒々しい。
が、動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
たとえこのまま死んでも、このお武家たちに生きているからだをさとらせてはならない。
それまで妙に考え込んでいた吃りの主人と猫侍、女の身柄を[#「身柄を」は底本では「 柄を」]中に、どっちからともなくぽつりぽつりと話し出した。
「わ、わしに、こ、このような進物をするとは、つ、津賀閑山の気が知れぬ」
「もとより進物ではございますまい。やはりその、屋敷を取り違えて届けられた門亡者と存じまする」
「が、門亡者にしたところで、わしのもとへ送ろうとしたものではないか」
「なるほど。では、当初《はじめ》から何かの行きちがいでござりましょうな」
「こ、これをひいて参った下郎は、ほほ他に何か積んでおったか」
「その儀、手前いっこうに存じませぬ。ただ手前が門内へはいりましたゆえ、そっと玄関に出ておりますとわれんばかりに戸をたたきますので、こう内からあけてみましたところ――」
「うむ」
「せっせ[#「せっせ」に傍点]と鎧櫃をおろして、閑山から参りました。お受け取りください、とがなりおりますから、さようか、御苦労と手前が出ましてな、その者と二人でかつぎ入れましたうえ、時分を見て御前にお越しを願った次第、腑に落ちぬと申せば、第一にあの下郎が不審でござります」
「わしが参ったときは、そ、そちはこれを二階へ引き上げおった。それはよいが、か、閑山の下僕、と、戸を乱打致してがなり立てたと?」
「は。いささか酒気を帯びておりましたようす」
「なんじゃ。く、くく、食《くら》いよったか。はははは、そ、それで解《げ》せたぞ」
「と申しますと?」
「し、知れたこと、その者の間違いじゃ」
その者のまちがい?
というと、車をひいて来た閑山の飯たきが、誤って自分をここへ送り込んだのか。
さては閑山爺さんは恨む筋で
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