《まゆつばもの》だが、奴もただの奴ではあるまい。
 狐《きつね》と狸《たぬき》。お化けにお化け。当たらなくても遠くはなかろう。
 女がそこの古道具屋へはいったことは、誰も知らない。ほど近いお上屋敷へ青山|因幡《いなば》の殿《しんがり》が繰り込んでしまうと、知らぬが仏でいい気なもの、
「姐さん、お待ち遠さま――さあ、やるべえ」
「どっこいしょっ、と」
 二人の駕籠屋、声をそろえて肩を入れた。重いつもりで力んで上げたのが、空《から》だから拍子が抜けて、ふらふら[#「ふらふら」に傍点]と宙に泳ぐ、。
「おっとっとっと!」
 踏みしめたが遅かった。
「わあっ!」
 と駕籠をほうり出して、
「兄い、こりゃどうだ!」
「やっ! 消えてなくなるわけはあるめえ。ちっ、まんまと抜けられたのよ」
「確かに足はあったな。幽霊じゃあなかったな」
「おきやがれ、面白くもねえ」
「どろん[#「どろん」に傍点]と一つ、用いやがったかな」
「伊賀流の忍術じゃあるめえし」
「まだ遠くへは突っ走るめえぜ。おらあ追っかけて――」
「よせよせ、手前なんかに歯の立つ姐御《あねご》じゃねえ。器用な仕事に免じて、こちとら旗あ巻くのが上分別よ」
「駕籠屋さん一両だよ、ってやがらあ! あの声が耳を離れねえ」
「ぐちるなってことよ」
「しかし、兄貴の前だが、水っぽい女だったなあ。むっちり[#「むっちり」に傍点]した膝《ひざ》をそろえて、こう揺れてたのが眼を離れねえ」
「いろんな物が離れねえな」
「畜生っ! たた、たまらねえやっ」
「勘太っ! 妙な腰っ張りするねえ! 駕籠をかつげ、帰《けえ》るんだ」
 わいわい[#「わいわい」に傍点]いっている。
 これを見た古道具屋の主人《おやじ》、なんとかいってやりたいが、そこに女の眼が光っているからただもじもじ控えているばかり――。
 仲間体《ちゅうげんてい》の男が駈けつけて来た。
 駕籠屋から一伍一什《いちぶしじゅう》を聞くと、男はつかつか[#「つかつか」に傍点]と古道具屋の店頭《みせきき》へ進んで、
「ちょっと物を伺います」
 ちゃんとした口調だ。
「はい、はい」
「お店へ水茶屋風の年増《としま》は来ませんでしたかね?」
 爺さん、つい口ごもって戸の内側の女を見る。女の眼が恐ろしい無言のことばと、底に哀訴の色をひらめかしていた。
「いいえ」われ知らず、爺さんはうそぶいてしまった。「どなたもお見えになりませんで。はい」
 ちょっと首をかしげたので、これあはいってくるかな。とひやり[#「ひやり」に傍点]とすると、男はそのまま立ち去った。
 駕籠屋はもう姿がない。
 ほっ[#「ほっ」に傍点]としたらしく、女はあでやかにほほえんだ。思わずつり込まれて、老爺も皺《しわ》だらけの顔をほころばせたほど、それは魅力に富んだ笑いであった。
「大丈夫?」
 立ったままで女がいった。娘にでも対するように、いかにも自然に、そしてきさく[#「きさく」に傍点]に、老爺は大きくうなずいてみせた。
 親船に乗った気でいるがいい――。
 こういいたかったのだ。実際、このへんてこな初対面の二人のあいだに、十年の知己のような許し合った心持ちが胸から胸へ流れたことは、不思議といえば不思議、当然《あたりまえ》といえば当然かもしれない。
 女は出て来て、薄暗いところを選んで上がり框《かまち》に腰をおろした。ちらり、ちらりと戸外《そと》を見ている。
 ほんのり上気した額に、おくれ毛がへばりついて、乱れた裾前《すそまえ》吐く息も熱そうだ。
「年増だって!」と嬌態《しな》をつくって、「年増じゃないわねえ」
 同意を求めるように見上げるまなざし、老爺は黙っていた。忘れていた女の香にむせて、口がきけなかったのである。
「お爺《とっ》つぁん、何ていうの、名は」
 女がきいていた。その声で、はっ[#「はっ」に傍点]として年寄りの威厳を取りもどした。
「どうしたんだ。今の騒ぎは」
 最初からこんなことばづかいが出ても、二人はすこしもおかしく感じないほど、父娘《おやこ》といっても似つかわしい。
「悪い奴に追っかけられたのさ」女はまだおどおど[#「おどおど」に傍点]していた。
「でも、お爺つぁんが助けてくれたから、もう安心だわねえ。たのもしいよ、ほほほほ、あんた何ていうの」
「わしの名か、津賀閑山《つがかんざん》」
「津賀閑山? 湯灌場《ゆかんば》買いね」
「口が悪いな」
「ほほほ、けどお手の筋でしょ?」
「まあ、そこいらかな」
「面黒いお爺さんだねえ。いっそ気に入ったわさ。惚《ほ》れさせてもらおうよ」
 閑山は出もしない、咳《せき》をして、吐月峰《はいふき》を手にした。
「いまお前さんを捜しに来た男は何だ」
「まあ可愛い! もう妬《や》いてるの?」
「いや、お前さんはあの男を知っているのかね?」

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